衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年01月25日    月曜日     第3 回の開示 合計3031回の開示

父子合集経講話(一〇四)

愚痴で倒錯した人は夢を現実と錯覚する

美しい音声を聞くと心が快適で喜びを感じるが、これは実は夢を見るのと同じく、全て幻化して実体のないものである。夢の中で美しい音楽を聞き、心が喜ぶことは更に幻化した実体なき現象である。夢境は独影境であり、意根の遍計所執性が縁って現れた境界である。如来蔵は意根の貪愛と執着に依り、直接に業種から法塵境界を幻化し、意根に了別させようとする。意根が詳細に了別できないため、意識を出現させ共同で了別させる。こうして意識が音楽の音声に対し作意・触・受・想・思を起こし、感受が生じ、美しく耳に快いと感じ、心が愉悦と喜楽を生じる。この中で、意根は如来蔵が幻化したものであり、夢中の音楽は如来蔵が幻化したものであり、意識は如来蔵が幻化したものである。実有不滅の法は一つも存在せず、全てが虚妄不実で依存できないものであり、私のものでも私が所有するものでもない。

目覚めた後は、夢中の音楽は更に跡形もなく消え、独頭意識も滅し、独頭意識の快感は更に存在せず、一つの法も真実とすべきものはない。夢の中で美しい音楽や賞賛の声、好きな人や物事を聞き、人を大いに喜ばせる夢を見ても、目覚めれば全て無に帰する。夢の中にこれらの現象があっても、全て幻化した虚妄不実のものである。もし人が夢に見た人や事柄を真実と見做し、夜見た夢を現実だと信じ、時折妄想を巡らせ追想し、執着と貪愛を生じて夢中の境界に浸り続け、そこから出ようとしないなら、その人は実に愚痴無智である。夢を見ている時に夢境を真実とするのは既に迷妄倒錯であり、目覚めた後も尚真実とするのは更なる倒錯である。

——生如法師の開示
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