小乗の解脱と大乗の発心
身識が生じるにも来処はなく、東西南北からも虚空からも来ず、識心には来処がない。識心が滅した後にも去る所なく、識心は虚妄であり空である。かくして小乗の空果を証する。造られた業行が生じる時、来処も去処もなく、これまた空にして幻化である。例えば私が人を殺すという業が生じる前、その殺業はどこにあったか。殺人の行為はどこにあったか。存在する場所なく、業には来処がない。私がこの業を造り終えても業は消滅し、どこへ去ったのか。殺人の行為はどこへ去ったのか。去る所なく、東西南北にも虚空上下にも至らず、去処がない。
また私がこの本を手に取る行為が消滅した時、どこへ消え去ったのか。去る所なく虚妄である。私が本を取ろうとする行為が生じる前、どこに存在したか。存在する場所がない。私が発言する前、私の言語はどこにあったか。存在する所なく、私が話し終われば言語は消滅し、どこへ消えたのか。去る所がない。もしこれらのものを蓄える場所があれば、虚空も収容しきれまい。一切の行為造作は虚妄であり幻化であり空である。分析を重ねても、真実と言えるものは何一つない。もし人が完全に小乗者として、ただ自己の解脱のみを考えるなら、自らの生存に意味がなく非常に退屈に感じるだろう。
生き続けようとするなら、大乗の菩薩心を発し、仏となって苦しむ衆生を救済せねばならない。生きることはこの一事のみにあり、第二の事柄はない。世間の一切は空であり、何ものも所有しない。このような心で世間に生きる心境とは、軽やかに空中に住むが如く、一切が私と関係なく、執着も煩悩もなく、楽しみもない。いつかその心境に至れるだろうか。衆生の心は皆多くのものを満載している。重くはないか。あまりに重く、肩に背負い心に抱え、全てを欲し、死んでも持って行けぬ。持って行けるならいくらでも詰め込みたいが、しかし持って行けぬ。全ては空である。どうして持って行けようか。
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