衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年01月08日    金曜日     第2 回の開示 合計2979回の開示

父子合集経講義(八十六)

小乗の解脱と大乗の発心

身識が生じるにも来処なく、東西南北より来たるのでもなく、虚空より来たるのでもない。識心には来処なし。識心が滅した後にも去処なく、識心は虚妄にして空なるもの。かくして小乗の空果を証する。造られる業行が生じる時、来処なく去処なく、これまた空にして幻化なり。例えば私が人を殺すという業が生じる前に、この殺人の業はどこにあったか。殺人の行為はどこにあったか。存在する処なく、業には来処なし。この業を造り終えても業はなくなり、業はどこへ行き、殺人の行為はどこへ行ったか。去るべき処なく、東西南北にも虚空上下にも至らず、去処なし。

また私がこの本を手に取る行為が消滅した時、どこへ消え去ったか。去るべき処なく虚妄なり。本を取ろうとする行為が生じる前、どこに存在したか。存在する処なし。私が言葉を発する前、私の言語はどこにあったか。存在する処なく、話し終われば言語は消滅し、どこへ消え去ったか。去るべき処なし。もしこれらのものを貯蔵する処あらば、虚空もまた容れ難からん。一切の行為造作は虚妄にして幻化、空なり。分析を重ねても、真実なるものは何一つなし。もし人が完全に小乗者たるならば、ただ自己の解脱のみを考え、生きることに意味なきを覚え、甚だ無聊を感じるであろう。

生き続けんと欲すれば、大乗の菩薩心を発し、仏と成って苦しむ衆生を度すべし。生きることはこの一事のみ、第二の事は断じてなし。世間の一切は空にして無所有、この心をもって世間に生きる心境とは、飄々として空中に住むが如く、全ては私と関係なく、繋がりも煩いも憂いも楽しみもなし。いつかこの心境を得んや。衆生の心は皆多くのものを満載し、沈まざるや。あまりに重く、肩に背負い、心に積み、何もかも欲し、死してなお持ち去れず。持ち去れるならばいくらでも積みたまえ、多ければ善し。されど持ち去れず、皆空なるもの、いかにして持ち去らん。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

瑜伽師地論 巻第九(十二因縁)

次の記事 次の記事

一人の人間の感化力はどこから来るのか

ページのトップへ戻る