果報はどのように現れるのか
阿頼耶識がなぜ業を造る主人なのか。阿頼耶識がなければ五陰身も存在せず、業を造ることができないからである。意根が業を造ろうとする時、阿頼耶識はこれを了知し、意根に配合して様々な種子を出力し、五陰身の身口意行を完成させる。五陰の一切の活動は阿頼耶識が種子を出力することによって実現されるため、五陰そのものが即ち阿頼耶識であり、如来蔵性である。五陰身が造る業は一種の助縁であり、阿頼耶識と業縁の二つが次の世の五陰を生じる因縁となる。次の世の眼耳鼻舌身意の六識が生起すると、業報を受け始めるのである。
例えば人間に転生すべき場合、再び眼耳鼻舌身意の六識が生じ、五蘊が具足すると感受が生まれ、人間の果報が現れる。識が無い時は苦楽受を感じることができず、あたかも果報を得ていないかのようである。実際に人間の胎内に生を受ける際、十月間胎内に留まること自体が一つの果報である。この果報は意根が受け、如来蔵は果報を受けず、閉じ込められることも胎内に拘禁されることもない。母胎内で四、五ヶ月目以前は識心が無く、苦受も楽受も感じない。厳密に言えば、その時期は真の受報とは言えないが、受報でないと言いながらも実は受報である。なぜならその色身自体が果報身であるからだ。ただ心が無いため苦楽受を知らず、意根の感受は私たちの意識心が知覚できないのである。
もし地獄に転生した場合、地獄の身相が現れると、識心は即座に現れ、直ちに地獄の苦受を感じるようになり、苦報が現前する。あるいは畜生道に転生すれば、畜生の覚知心が現れると同時に苦楽受を感じ、苦報が現れる。琰摩羅界の鬼道、阿修羅界、人間道、天道に転生した場合も、識心が生じて初めて正式に受報が始まる。識心が生じた瞬間、善には善報が、悪には悪報が現実化する。天人は出生と同時に安楽を感じ、畜生道・地獄道・鬼道に転生すれば苦痛を感じる。ただし六識による感覚が無い場合でも、それ自体が果報に属するのである。
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