衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年12月02日    日曜日     第4 回の開示 合計1065回の開示

諸無為法の差別

問:『金刚経』によれば、すべての聖賢は無為法によって差異がある。これは如来蔵法の悟りの程度不同による差異、つまり空性の悟りの程度不同を指すのでしょうか。

答:聖賢人には声聞阿羅漢、縁覚辟支仏、菩薩、仏を含まれ、これらを四聖と呼びます。小乗の初果、二果は賢人です。明心以降至初地菩薩之前も賢人です。前二種の声聞と縁覚人は小乗根器であり、大乗成仏の道を行わず、大乗如来蔵法を参究せず、如来蔵も悟り得ません。大乗菩薩のみが如来蔵を参究し悟り得ます。これが大乗菩薩と小乗声聞縁覚の差異です。

仏が悟り得た無為法は最も究極的で徹底的です。我空、法空、我執法執全部断尽、心中空空如也。如来蔵法も空且執せず。大乗如来蔵を悟り得た菩薩は如来蔵という出世間無為法を悟り得、七識心も次第に無為になります。如来蔵のように有为法の造作心行において無為であり、有为と無為共存します。小乗声聞人は五陰無我を悟り得ます。これは小乗無為法です。縁覚は十二因縁の縁起法を悟り得ます。一切法は因縁所生故空であり、これも一種の無為法です。その後、声聞縁覚の心は无所造作、七識も無為になります。この無為性は如来蔵と異なり、如来蔵は一切有为法の造作心行において無為であり、有为を廃さず。声聞縁覚は有为を廃する無為です。成仏度众生这样最有意义的大事も不为。仏はこれを焦芽敗種の無為と言います。

声聞縁覚が悟り得た無為法は仮相であり、真実無為の如来蔵に依るものですが、不究極也不真実です。三界と六道を真実有と看做します。苦受も真実有と看做します。これらが如来蔵幻化出したもの、实质無有であることを知らず。すべては如来蔵性故です。彼らの無為法の悟り层次は低いです。菩薩は如来蔵無為法を悟り得、层次は声聞縁覚より高いですが、修為程度不足、如来蔵に完全依止せず、心行も完全空且無為ではありません。不究極です。仏のみが究極的徹底的無為です。

有人は声聞縁覚も如来蔵を悟り得たと言います。もしそうなら、彼らも菩薩であり、菩薩と差異なし。発心は同じべき、願力も同じべき。すべて如来蔵法を深入修行し、菩薩の道を行い、自利利人べきです。しかし彼らの行為は菩薩道に违背します。慈悲心未発します。三界苦を恐れ、自身の輪回を恐れ、涅槃に入ることを選びます。菩薩心行完全ではありません。

もし声聞縁覚も如来蔵を悟り得たなら、彼らは如来蔵が五陰身において如何运作するか、如何出生五陰身执持五陰身かを知るべきです。五陰苦も幻化故恐れ躲避せずべきですが、彼らは如来蔵法完全无知です。悟り得た如来蔵は現前観察が必要。如来蔵の名のみ聞き信じるなら、悟りまで十万八千里離れます。故声聞縁覚絕對如来蔵这种無為法を悟り得ません。小乗五陰無我と十二因縁这种無為法を悟り得ます。無為法の悟り不同故、聖賢们に大小高低差異あり。菩薩们も如来蔵悟りの程度不同故、智慧と果位に差異あり。

外道にも無為法あり。四禅定修到時は不動無為です。身心不動、呼吸、脈搏、心跳、分別、心念なし。無想定修到時は意識滅します。心更無為です。非想非非想定修到時は意識滅去受和想二心所法、これを想受滅無為と呼びます。不做不行不動、生滅法的無為です。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

縁由なき心理的な感情はすべて意根によるものである

次の記事 次の記事

菩薩の心行は、衆生には推し量ることができません

ページのトップへ戻る