観世音菩薩の耳根円通の法門は、修めの最後に至ると、捨てられるものはすべて捨て、空にできるものはすべて空にしました。捨てるという行為さえも捨て、空という概念さえも空にします。捨てるものと捨てられるもの、空にするものと空にされるもの、そして空そのものさえも全てを空にし、もはや空にするべきものは残りません。ただ孤高の如来蔵だけが残り、捨てることもできず、空にすることもできません。捨てる者も、空にする者もいなくなった時、悟りの境地に至り、三十二応身を成就し、大慈大悲の観世音菩薩と呼ばれるのです。
このような殊勝な境地を、凡夫が修得できるでしょうか。まったく成功することはできません。凡夫は初禅定さえ修得が困難であり、ましてや四禅八定や様々な三昧など及びません。凡夫が我見を断ち、如来蔵を証し、五陰身を空じることさえ難しく、貪欲を捨て去ることさえ極めて困難です。どうして一切の法を空じ、一切の法を捨て去ることができましょうか。どうして空さえも空にし、捨てさえも捨てることができましょうか。ましてや如来蔵を空じ、如来蔵を捨てるなどと語ることができるでしょうか。この法門は悟りを得た後でさえ修めるのが極めて難しく、菩薩の境地に入ってからも容易に修められるものではありません。凡夫の位にある衆生がどうしてこれを成就できましょうか。故に凡夫衆生が修行するには必ず次第が必要で、浅きから深きへ、順序を踏んで進まねばなりません。まだ飛ぶこともできない者が月を摘もうと望むようなもので、たとえ悟りを証した大菩薩の修行であっても、次第に浅きから深きへ順を追って進む必要があり、飛躍的な修行は許されないのです。
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