多くの現代の仏教修行者は研究を好み、特に文人や学者にその傾向が見られますが、実のところ研究とは意識の働きの範囲内であり、思考や解釈に頼る類のものです。
実際の仏法の修行と証得は、決して研究ではなく、思考や解釈、憶測によって為されるものではありません。かつての禅宗の祖師方も最も憶測を戒められました。しかし現代では公然と憶測が行われ、大手を振って推測や思考的解釈がなされ、真実の修行に真摯に取り組もうとしません。仏教が徐々に変質していく様子を目の当たりにしても、どうしようもないのが現状です。世俗の生活リズムが速くなり、ファストフードが流行して人々の身体を不健康にしているように、仏教も時代の流れに従ってファストフード化し、思想が不健康になり病態を呈しているのに自覚がなく、かえってその病態を美徳と見なしています。
仏教のファストフード化は大衆の浮ついた心から生じ、その結果さらに心が落ち着かなくなり、口先ばかりで実践を怠る者が多くなりました。仏教は研究する宗教ではなく、証得を求め、着実に一歩ずつ修行を積む必要があるのです。そのためには身心を捨て去り、心の奥底から徹底的に目覚め、身心を内側から外側まで根本的に転換させなければなりません。そうして初めて真に識を智に転じ、全く新しい自我が現れ、仏のような五蘊の世間が現出するのです。
修行の道は長く、焦らずに進むべきです。時に急ぐことは禁物で、重要なのは仏法の基礎を固めることです。早急な成果を求めず、砂の上に高層ビルを建ててはなりません。基礎がなければ、どれほど高い建物もいずれ崩れ落ちます。私たちは着実に学びを深め、速成で明心見性を求めてはなりません。さもなければ仏教にも個人にも深刻な悪影響を及ぼします。因縁が熟さず福徳が不足している時は、禅参究を急いだり明心を焦ったりせず、基礎を固めましょう。基礎が脆弱では空中楼閣を築くようなもので、いつか崩壊する危険があります。速成の悟りは次第に弊害を生み、道業の成長を遅らせ、慢心を生じやすくします。これは悟道を妨げる最大の障りとなり、悪業を造り来世で悪報を受けることにもなりかねません。
因縁が具わらない時は速成の悟りを求めず、無我の理を思惟観行し、確実に我見を断じることに専念しましょう。これは自己にも他者にも団体にも大いに益があります。現代人の煩悩が特に重いのは、すべて我から来ています。我見を徹底的に断じれば煩悩は軽減され、悪業を造る機会も減ります。明心の際に我見を完全に断じなければ、我によって悪業を造りながら自覚せず、むしろ正義と信じて悪業を積むことさえあるでしょう。真に我見を断つ功徳の効用は大きく、これが仏教修行で最も重要な要所なのです。
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