(三)原文:尊者舎利弗。復た尊者摩訶拘絺羅に問う。先に名色は自ら作るに非ず、他作に非ず、自他作に非ず、非自他作無因作に非ず。然るに彼の名色は識を縁として生ずと説きながら、今また識は名色を縁とすると説く。この義いかん。尊者摩訶拘絺羅答えていわく、今譬えを説かん。譬えによって解を得る智者が如し。譬えば三本の蘆が空地に立ち、展転相依して立ち上がるが如し。若しその一を去れば、二もまた立たず。若しその二を去れば、一もまた立たず。展転相依して立ち上がる。識が名色を縁とするもまたかくの如し。展転相依して生長を得る。
釈:舎利弗が再び拘絺羅に問う。先に「名色は自ずから存在するものではなく、他縁によって生じるものでもなく、自他和合によって生ずるものでもなく、無因無縁に生ずるものでもない。しかし名色は識を縁として生じる」と説かれましたが、今また「識は名色を縁として生じる」と説かれます。この意味はどういうことでしょうか。
拘絺羅が答える。今譬えを説きましょう。智者が譬えによって理解を得るように。例えば三本の蘆が空地に立つには、互いに支え合って初めて立つことができます。一本を取り除けば残り二本も立たず、二本を取り除けば残る一本も立ちません。互いに依存し合って立つのです。識と名色が互いを縁とする関係もこれと同じで、相互に依存して生長するのです。
名色五陰が六識を縁として生じる理は、六識が絶えず身口意の行いを造作し、業種が残るため五陰身は滅せず、後世も三界に出生し続けることにあります。後世の業種が存在する故に中有身が生じ、後世の名色が生じます。意根が中有身において業種に随って六道を流転し、第八識と共に胎に投ずれば、後世最初の名色が生じます。名は意根第七識、色は受精卵です。六識が名色を縁として生じる理は、衆生の胎児期における名色の成長後、六入処が成熟し、六根が六塵に触れることで、名色五陰身の中に六識が生じることにあります。かくして名色と六識は相互依存の関係にあり、生死が断絶せず続くのです。
十因縁において識が名色を縁とし名色が識を縁とする説があるが、ここでの識は六識ではなく阿頼耶識を指します。阿頼耶識が名色五陰を縁として五陰世間に作用し、名色も阿頼耶識を縁として初めて生起・発展・持続するのです。阿頼耶識無くして名色の発生なく、名色無くして阿頼耶識は無余涅槃の状態に在ります。
原文:尊者舎利弗言う。善哉善哉。尊者摩訶拘絺羅よ。世尊の声聞弟子中において、智慧明達し、善く調御して畏れ無く、甘露の法を見、甘露の法を具足して身をもって証する者とは、まさに尊者摩訶拘絺羅のことをいう。かくの如き甚深なる義理を弁じ、種々の難問に皆よく答えることは、無価の宝珠の世に頂戴されるが如し。我今尊者摩訶拘絺羅を頂戴すること亦かくの如し。我今汝の所に於いて善利を得ること速やかなり。諸の余の梵行も数々その所に詣で、亦善利を得ん。彼の尊者が善く法を説くが故に。我今この尊者摩訶拘絺羅の説かれる法の故をもって、三十種の讃歎を以て称揚随喜すべし。
釈:舎利弗が讃嘆する。素晴らしいことです、摩訶拘絺羅よ。あなたは世尊の声聞弟子の中で智慧に明達し、自心を善く調御し、畏れ無く、仏法の甘露を証見されました。完全に解脱の甘露法を証得し、身をもって「我が身は尽き、梵行は立ち、所作は作り終え、再び後の有を受けること無きを自ら知る」ことを証されました。あなたはこのような甚深な法義を弁じる無碍の才を持ち、あらゆる難問に応答されます。無価の宝珠が世に尊ばれるように、私も今尊者摩訶拘絺羅を尊びます。あなたのもとで善法の利益を得、他の修行者もたびたび参じて善利を得ています。尊者が巧みに説法される故に、私は今この尊者摩訶拘絺羅の説かれた教えに対し、三十種の讃歎をもって功徳を称え、随喜いたします。
0
+1