衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年10月01日    木曜日     第3 回の開示 合計2667回の開示

人が自ら求めなければ、品は自ずから高くなるとはどのような思想の境地でしょうか?

人が無求となるとは、あらゆる法に執着せず、手段を講じて求めようとせず、何事にも心を働かせない状態、これが無為である。内心が無為なる者は、いかなる手段をも用いて事を謀ることはなく、たとえ正当なことでも意図的に求め争うことはせず、ましてや不正なことや不正な手段を用いることは決してない。このように、彼は何事にも人と争わず、世と争わず、事柄とも争わず、争う心がなければ奪う心も騙す心も盗む心もさらに起こらず、万事に求めず縁に随って日を過ごす。このような人の品德と人格は極めて高く、思想の境界も渾然として我を忘れた境地にある。

普通の人はただ時折こうした状態になれるだけで、特定の事柄においてのみそうできる。もし人が常にこのように振る舞い、心の行いがいつも清浄で淡泊、無欲無求であれば、その人はもはや普通の人ではない。それはどのような人か。必ず我見を断じた者、心中に我なき者であり、しかも単に我見を断った初果や二果の者ではなく、煩悩を断除した三果四果の者である。もちろん阿羅漢たちの人格は皆高尚であり、その徳行と修養は人中最上のもので、天をも超え、人天の大衆の師となり、人天から供養を受けるに相応しい。

もしこのような阿羅漢がさらに多くの衆生を利益する行いをなし、内心に深く衆生を度脱しようとする志を抱き、常に衆生の苦を思い、深く衆生が苦難を超脱するのを助けたいと願うならば、その阿羅漢は菩薩摩訶薩、初地から八地に至る存在である。もちろん八地以前の菩薩の心は、いかなる時も無為であり自然に為し、因縁に順応することはできず、また常に無欲無求でいることもできず、まだ煩悩習気の影響を受ける。八地以上の菩薩の心こそが時時刻刻無為であり、任運自然に造作なく、心空法空となり、禅定は極めて深く、智慧も極めて深く、永遠に因縁に随順し、自然のままに衆生を度する事業を成就させ、我にも法にも執着しない。

したがって、あらゆる人の人格と品德はその修証と関係がある。修証が高ければ高いほど、心は空しく、心が空しければ量りが大きく、ますます無為となり、品德も高くなる。修証の結果はすべて世俗法に現れ、その無為なる心の行いも世俗法の中に表現され、衆生を度する過程に現れ、あらゆる事業をなす中に現れる。ゆえに、人に修証があるかどうか、道があるかどうかは、智慧ある者がその身口意の行いを観察すれば明らかに検証できるのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

煩悩現起の原因

次の記事 次の記事

中秋節はいつから始まったのでしょうか。

ページのトップへ戻る