(四)原文:又复思惟。何法无故有无。何法灭故有灭。即正思惟。生如实无间等观。取无故有无。取灭故有灭。又作是念。何法无故取无。何法灭故取灭。即正思惟。生如实无间等观。所取法无常生灭。离欲灭尽舍离。心不顾念。心不缚着。爱则灭。彼爱灭故取灭。取灭故有灭。有灭故生灭。生灭故老病死忧悲恼苦灭。如是如是纯大苦聚灭。
解釈:仏はおっしゃった。私はまた再び思惟した。どの法がなければ三界有はなくなるのか。どの法が滅するので三界有が滅するのか。このような疑念が生じてから、私はただちに正思惟に入り、正思惟の後に、如実の無間断の観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧が生じ、執取がなければ三界有もなくなること、執取が滅した後には三界有が滅することを証した。
私はまたこのような疑念を生じた。どの法がなければ執取はなくなるのか。どの法が滅すれば執取が滅するのか。ただちに正思惟に入り、正思惟の後に、如実の無間断の観行の智慧が生じ、一切の取着する法はすべて無常生滅相 (utpāda-nirodha-lakṣaṇa) であることを証した。無常生滅の法に対して欲望がなくなり、欲望を滅し尽くし、法貪と法愛を捨離し、心はもはやこの五陰 (pañca-skandha) 世間法を顧念せず、心はもはや五陰世間法に縛着されず、貪愛は滅するであろう。貪愛が滅した後には、世間法に対する執取は滅去する。執取が滅去した後には、三界有が滅去する。三界有が滅去した後には、生が滅去する。生が滅去した後には、老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) が滅去する。このようにして、世間最大の生死苦悩の大火聚が滅去し、これ以後はもはやいかなる苦受も生じないのである。
なぜ五陰世間を執取しなくなると、三界世間の有が消滅するのか。執取性とは意根の無明であり、意根の遍計所執性 (parikalpita-svabhāva) だからである。三界世間は意根の無明執着によって建立されたものであり、意根が執着を断じ尽くし、もはや五陰世間を執取しなければ、心は空で清浄 (viśuddha/pariśuddha) となり、もはや三界の業行を造作せず、あるいは造作が少なくなり、三界の業種は次第に消滅する。生命の存続期間には有余涅槃 (sopadhiśeṣa-nirvāṇa) の中にあり、命終の時に意根が一切の法に対して取らず執らなければ、如来蔵 (tathāgatagarbha) はもはやいかなる法も出生できず、意根の識種子も出生できず、意根は滅去し、五陰身は消失し、これ以後はもはや五陰身を出生せず、自身の属する三界世間の有もそれに伴って滅去し、もはや出生しない。三界世間の有がなくなれば、後世の生命は寄託するところがなく、さらに三界の業種もなければ、生命が出生する条件と因縁は具足せず、もはや生命体が現れることもないのである。
なぜ貪愛が滅すると執取性が滅するのか。貪愛は心を五陰世間の中に深く陥れ、抜け出せなくさせ、五陰と分離できなくさせ、必ず世間法を執取させるからである。もし貪愛しなくなれば、法に対してあってもなくてもよいものとし、縁に随って自在であれば、執取する動力もなくなる。それゆえ、生死輪回は貪愛によって引き生じたものであり、三界を愛さなければ、必ず涅槃に至り、もはや生死し続けることはないのである。
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