衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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日常開示

2020年09月27日    日曜日     第2 回の開示 合計2653回の開示

雑阿含経第十二巻(二八五)の四

(四)原文:また再び思惟した。どの法が無い故に「有」が無くなるのか。どの法が滅ぶ故に「有」の滅があるのか。即ち正思惟を起こし、生じたるが如実の無間等観を観じ取る。取るものが無い故に「有」が無く、取るものが滅ぶ故に「有」の滅がある。またこのように念じた。どの法が無い故に「取」が無くなるのか。どの法が滅ぶ故に「取」が滅ぶのか。即ち正思惟を起こし、生じたるが如実の無間等観を観じ取る。取るべき法は無常にして生滅し、欲を離れ滅尽し捨離する。心は顧みず、心は縛られず、愛は即ち滅す。その愛が滅ぶ故に取が滅び、取が滅ぶ故に有が滅び、有が滅ぶ故に生が滅び、生が滅ぶ故に老病死憂悲悩苦が滅ぶ。かくの如く純然たる大苦聚が滅尽する。

釈:仏は説かれた。私は再び思惟した。どの法が無くなれば三界の有が無くなるのか。どの法が滅びれば三界の有が滅びるのか。この疑念を起こした後、直ちに正思惟に入り、正思惟の後に生じた如実の無間断なる観行智慧によって、執取が無くなれば三界の有が無くなり、執取が滅びれば三界の有が滅びることを証得した。

私はまたこのように疑念を抱いた。どの法が無くなれば執取が無くなるのか。どの法が滅びれば執取が滅びるのか。直ちに正思惟に入り、正思惟の後に生じた如実の無間断なる観行智慧によって、一切の取着する法は全て無常生滅するものであることを証得した。無常生滅する法に対する欲望が無くなり、欲望が滅尽し、法貪と法愛を捨離し、心はもはや五陰世間法を顧みず、心が五陰世間法に縛られなくなれば、貪愛は滅ぶ。貪愛が滅べば世間法への執取が滅び、執取が滅べば三界の有が滅び、三界の有が滅べば生が滅び、生が滅べば老病死憂悲苦恼が滅び去る。かくして世間最大の生死苦恼の大火聚が滅尽し、今後一切の苦受は存在しなくなる。

なぜ五陰世間を執取しなくなれば三界世間の有が消失するのか。執取性とは即ち意根の無明であり、意根の遍計所執性である。三界世間は意根の無明執着によって建立されたもので、意根が執着を断尽し五陰世間を執取しなくなれば、心は空しく清浄となり、もはや三界の業行を造作せず、あるいは少なく造作するようになる。三界の業種は次第に消失する。生命存続期間中は有余涅槃に住し、命終時には意根が一切法を取らず執わざるが故に、如来蔵はもはや如何なる法も出生できず、意根の識種子も出生できなくなる。すると意根は滅し五陰身は消失し、今後再び五陰身が出生せず、自身に属する三界世間の有もまた滅尽して再び現れない。三界世間の有が無くなれば後世の生命は寄托する所を失い、更に三界の業種が無くなれば生命出生の条件と因縁が具足せず、もはや生命体が現れることはない。

なぜ貪愛が滅べば執取性が滅ぶのか。貪愛は心を五陰世間に深く沈溺させ離れ難くし、必然的に世間法を執取させる。もし貪愛しなければ、法に対し可有可無となり、縁に随って自在であるから、執取の動力が無くなる。故に生死輪廻は貪愛によって引き起こされ、三界を愛さなければ必然的に涅槃に入り、生死を繰り返すことはなくなる。

——生如法師の開示
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