衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月09日    水曜日     第1 回の開示 合計2604回の開示

ブラックボックスの中の病

いわゆる病とは、四大の違和、すなわち地水火風の不調和により、組織機構に変化が生じ、色身の基本粒子が変化し、身根などの五浮塵根に病変が現れることを指します。これには五勝義根の病変の可能性も含まれ、ブラックボックス内の内相分五根の病変も含まれます。しかし衆生の六識が感知する病変は全てブラックボックス内の病変であり、その外に出るものではありません。故にこれらは虚病・仮病であり、真の病ではないのです。例えば目が痛いと感じる場合、浮塵根である顔の目が痛いのではなく、ブラックボックス内の目の影像が痛いと感じているに過ぎません。影像に痛みなどあるはずがなく、単なる電気信号でしかないのです。同様に筋肉や骨の痛みを感じても、浮塵根の身体が痛むのではなく、ブラックボックス内の電気信号が「痛い」と感じているだけです。電気信号に痛みなどなく、影像に痛みなどない——これらは全て錯覚にすぎません。

たとえ頭痛を感じたとしても、それはブラックボックス内の電流信号で構成された仮の頭痛であり、真の痛みなど存在しません。肩の上の頭は痛んでいないのです。六識の感覚は全て信頼できません。なぜならそれらは虚相と仮相に対する覚知であり、ブラックボックス内の電流信号に対する覚知だからです。覚知しているのは常に変化する仮想の状況であり、その覚知後の「受」に何の真実性がありましょうか。「受ける」と「受けず」に何の違いがありましょうか。幻化された仮相に対して何を行おうとも、為すも為さぬも空であり、覚えようと覚えまいと、受けようと受けまいと、諸法は本来のままです。ただ個人の生死の縛りを増すだけで、それ以外に何がありましょうか。

病の時、五根は痛まず、六塵も痛みません。では六識が痛むのか? 六識が何を痛むというのでしょう。塵性など存在しないのです。生死こそが大病であり、衆生の病は重篤です。これを治療するには苦集滅道の四聖諦を用いるのが最も有効です。

——生如法師の開示
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