二つ目の催眠事例では、催眠術師が人を催眠状態に誘導し「眠れ」と告げると、その人は瞬時に睡眠状態に入りました。催眠状態に入った後、術師は「あなたは今非常に空腹である」と暗示をかけます。その人の意根はこれを信じ、強く空腹を感じるようになります。なぜ意根が信じるのか? それは意根に微細な弁別能力がなく、意識が六塵境界の真実や催眠術師の言葉の正当性を分別していないからです。従って術師の言葉を意根は全て信じ受け入れ、催眠術師がその者の意識を代替するのです。
空腹を暗示した後、術師が「空腹か?」と尋ねると、彼は「はい」と答えます。術師は「リンゴをあげよう、二口食べれば空腹は消える」と言い、実際には玉ねぎを渡しながら「リンゴだ」と告げます。意根は玉ねぎとリンゴを区別できず、これをリンゴと信じ込み、玉ねぎを食べながらリンゴの味を感じます。これが虚妄の分別と感受なのです。
想陰と受陰はこのような虚妄の分別・感受であり、真実の理など存在しません。全ての衆生の世俗界に対する知覚と感受も同様に虚妄であり、生死輪廻に実質的な意味はありません。想陰の虚妄性については『楞厳経』仏説を参照しましょう。経中で仏はこう説かれています:家に座って高い所を想像する者が、崖の上に立つ自分を思い描くと、想像するだけで実際に崖端に立ったような感覚に陥り、落下を恐れて神経を尖らせ、足の裏に酸っぱいような緊張感を覚える。
あるいは酸梅を想像する者が、実際に食べも見もしていないのに唾液が溢れ出す例。口に何も入れていないのに何故唾液が出るのか? これが虚妄想の結果であり、想陰が現れると、それに相応する境界が生じるのです。六塵境界も五陰身も、全て虚妄の想いが生み出したもの。虚妄の心が虚妄の境界を創り出し、さらに虚妄の分別と反応を引き起こす。五陰世界は夏日の陽炎や蜃気楼の如きものなのです。
この催眠事例は釈尊が説かれた想陰の虚妄性を証明します。つまり日常生活のあらゆる事象、衆生が生生世世に経験する全ては、想陰が創り出した虚妄であり、真実性も道理もありません。私たちは『楞厳経』を学ぶべきです。釈尊が覚りへ導く法を説かれた経典です。想陰・受陰・行陰・識陰の虚妄を説く章節を深く読み、実際に観行を実践すれば、五受陰が全て虚妄であることが体得できましょう。まさに悟りを開く「開悟の楞厳」なのです。
衆生は生生世世、三界という舞台で戯れ、虚妄に生きています。狂想・妄想・虚妄の想いによって、実在しない世界を無から創り出している。創り出した世界は真実か? 決して真実ではない。しかし私たちはこれを真実と思い込み、さらに虚妄の境界を現出させ、またそれらを真実と錯覚する。そして虚妄の受・想・行が反応を起こす。この反応もまた不実なのです。
全ての不実な境界は妄想から生じ、妄想に対し不実な反応を続ける。終わりなく無意味に生存し戯れ、生生世世自分自身を欺き続ける。苦は楽を常に上回り、楽も真の楽ではありません。三界に住む全ての衆生は、結局何をしているのか? 道化師や役者の如く、自分が戯れの中にいることに気付かず、真剣に演技を続ける。あまりに愚かではありませんか? これらの理を禅定の中で観行し、心を澄まして思惟せよ。自らのあまりの愚痴・愚鈍さに気付くでしょう。いつ覚る時が来るのか?
覚らなければ永遠に自分を欺き、毎日が「愚者の日」となる。自らを苦しみに沈めながら、なお貪りに執着し、求め続ける。生死の大戯曲で様々な役柄を演じ尽くし、五味紛々の感受を味わうが、いったい何が真実か? 全て不実です。始めから終わりまで、真実など一つもない。受陰も想陰も不実、妄想・狂想・虚妄想は全て病的な想い。どこに真実があろう? 虚妄の境界を想い出し、その中で生死の苦を受けるなど、まったく無駄なことです。
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