八、山の高さと水の深さ、高さと深さは形色と表色である。山の色彩という顕色があって初めて山の高さという形色が引き立ち、山の高さという形色があってこそ山体の色彩の範囲を画定できる。水色があってこそ水深の表色が引き立ち、水深の表色があってこそ水量を画定し得る。顕色である五塵色と、形色・表色・無表色の法処は互いに緊密に結合し、一瞬たりとも分離できない。そうでなければ、いかなる色も存在し顕現することはない。故に外塵は必ず法処を有すると説く。六塵相は具足しており、外五塵のみが存在し同時に法処がないということはあり得ず、法処を欠いた外五塵は存在せず、想像上の産物である。法処が後脳の勝義根において五塵に依って変現するという説は全く根拠がなく、成立しない。外塵は必ず完全な六塵相を具えており、如来蔵が最初に造り出す際、色彩などの顕色のみを単独で造り出し、形も内実もない茫漠たる色彩世界を創造することはない。世界は単純な色彩で構成されるものではない。様々な物体がそれぞれ形状と性状を備えているからこそ、多彩な物質世界が成立する。例えば如来蔵が五陰身を造る際、色身の色彩のみを造り出し、高矮肥痩などの法処を他人の勝義根で別途造り出すなどということは絶対に不可能で、いかなる者が空想しようとも、そのような人類や衆生相を思い描くことはできない。また極楽世界の黄金の大地を例に取れば、金色のみ存在し堅固性や広博性、境界がなければ、どうして黄金の地を歩むことができようか。如来蔵は鏡が像を映す如く、鏡が外相の原貌に忠実であるように、原貌に長短大小高矮肥痩が存在しないのに、如来蔵が勝手に鏡面に長短方円大小高矮肥痩を映し出すなどということがあろうか。それはいかにして映し出され得よう。果たして如来蔵はなお鏡の如く像を映すと言えるのか。
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