仏は一切の法を現量知として覚知される。何が法であり何でないか、その場で直覚され、推論を要することはない。現量知ができないからこそ推論を用いるのであり、それは意根と意識の智慧力が不十分であることを示す。正確な情報を得るには推論に依存せざるを得ない。しかし仏は福徳と智慧の両面において円満具足した無上の智恵を有し、現量知できない法は存在しない。
因位の菩薩たち及び一切衆生の智慧は未だ円満ではなく、一切の法に対して現量知によって証することができない法が残っている。故に時に推論という方法を用いざるを得ず、使用頻度が多ければ多いほど、智慧に欠陥があることを示す。智慧が十分な者は即座に覚知し、何らの障害もない。よって参究と求証の過程において推論的方法を用いる場合、その者に現量知の智慧がなく、二次的な方法、理に適わぬ方法で情報を得ざるを得ない状況を示す。推論は推測や揣摩に似て、観察力判断力が不足しているため、推測せざるを得ず、断定できない形で判断する。得られた結論は現量知ではなく、完全に正確とは言えず、たとえ完全に正しくてもそれは偶然の一致に過ぎない。
現量観察の智慧を有する者は、自らの見解を極めて断定的に表現する。智慧が不足すれば半ば断定的な文を用い、智慧がなければ疑問文で表現し、信心の不足を示す。推論を用いる者は信心が確固とせず、他人から疑問や批判を受けると内心に躊躇や動揺が生じ、不堅固である。これは情報獲得の源泉に対する確信がないことを示している。
要するに、仏法修証の過程において推論はあくまで補助的手段であり、やむを得ず用いた後、参究の方法によって推論の正確性を証明せねばならない。なぜなら推論は意識を用いるが、真の参究は意根を用いるからである。意根は主宰者であり、その導き出す結論は当然ながら力強く響き渡り、何ものも揺るがし得ない。意識が導き出す結論はそうではなく、主宰者たる意根の審査を待たねば最終決定できないため、心中に不安が生じる。仏法修証の最終的な肝要な段階においては、意識を用いないことが最善であり、これこそ大丈夫の所行であって、小根小器の者たちが及ぶところではない。
2
+1