心法とは七つの識であり、色法とは五根と六塵である。根・塵・識の三者は三界の法に属し、三種の界限の法である。界とは界限の意である。界限が異なるというのは、世俗界の法則から言えば、すなわち関わりがなく、融合して一つになることができず、和合して働くことができないということである。実は、識界と色界という異なる界の触は、世俗界の角度から、手と手の触のようなもの、あるいは手が物質の色法に触れるような碰触・接触の触として理解することはできない。甚深極甚深の唯識種智の法は、世俗法の角度からはどのようにしても道理が通らず、理解もできない。世俗界の思惟のパターンでは永遠に唯識の問題を解決できない。六識・七識に転識成智させ、世俗界の識の認知・思惟の仕方を非世俗界の智の認知・思惟のパターンへと転じさせてこそ、初めて唯識種智の問題を次第に解決することができるのである。
どのように唯識種智のパターンから根・塵・識の三者の和合触を思惟するのか。我々は知るべきである。根・塵・識の三者は、界限が異なり、法の種類が異なるとはいえ、共通する部分がある。すなわち、いずれも如来蔵(tathāgatagarbha)の中の七大種子によって構成され形成されたものであり、七大種子は平等・平行・並列の関係にあり、属性は異なるが界限はなく、完全に融合して相触することができ、衆生の心に随って一切法を出生する。楞厳経の中で仏が説かれた通りである。こうすれば、異なる界の法が相触できるか否かという問題も理解しやすくなる。
七大種子はいずれも無形無相であり、世俗界の物質の色法のような触というものはそもそも語れない。それゆえ触するか否かの問題にも関わらない。そうすると、形成された根・塵・識の三者は世俗法の触ではないということになる。こう言っても、多くの人には依然として理解し難い。世俗法と仏法とが跨ぐ階層があまりにも大きく、甚深な仏法はしばしば自分の想像を超えるからである。仏の説かれた通り、仏法は測度・揣度によって得られるものではなく、必ず実証によってこそ体会できるのである。
無形無相の七大種子が送り出されて形成された根・塵・識に、形相はあるのか。いわゆる形相とは、俗界の肉眼に見えるような相貌を指す。実際理地から、聖義諦から見れば、一切法はいずれも世俗界のあのような相貌を持たず、すべて聖義諦の相であり、肉眼には見えない。見があるならばすなわち眚病(せいびょう)があり、病んだ眼が空花を見るのである。楞厳経の中で仏が説かれた通りである。
識心は無形無相であり、肉眼には見えず、意識によって感知することしかできず、最後には意根にも同じく知らせる。根と塵は色法であり、色を有し、形あり相あり、肉眼に見える。根と塵はいずれも同種の属性の色法であり、手や足が相触れるような触ができる。識心がさらに根・塵に触れ、色法に触れるのは、鏡が影像に触れるようなものである。影像は実色法ではなく、鏡は触れることができ、顕現することができる。実色法ではない影像は鏡の中に現れることができ、これを幻現と呼ぶ。七識が触れるものはいずれも実色法ではない根・塵であり、いずれも影像である。それゆえ影像は七識心の鏡の中に現れることができ、障りがないのである。実色法は誰が触れることができるのか。如来蔵のみがこの類の実色法と最も原始的な色法に触れることができるのである。
これらの聖義諦の運行の法則と規則は、世俗諦の角度からは、根本的に理解し想像することができない。それゆえ仏は、想像することや情思意解することを許されず、戒定慧が具足した後の実証を求められる。実証した者だけが互いに意会することができ、道者は同謀し、道者は同見する。識の種子が累積して成る識心が、五大種子の堆積によって成る根・塵の色法の上に落ちる。種子にはいかなる世俗界の相貌もないのに、形成された根・塵・識にどうして相貌があろうか。最初の原始色法に相貌があるならば、如来蔵はどうして触れることができ、識別することができ、伝導することができ、変現することができ、顕現することができようか。最初の原始の色法にすら相貌がないならば、如来蔵が顕現した影像の色法、色法の影像にどうして相貌があろうか。いずれも無相貌の法であり、根・塵・識の三者は完全に互いに触することができ、識心は完全に根・塵を顕現し根・塵を了別することができ、それによって虚妄の喜怒哀楽・悲苦の受が現れるのである。
根・塵・識は黒い箱の世界の中の法であり、虚幻にして不実、病んだ眼の見るところである。
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