『楞嚴経』第三巻において仏は七大種子の本性が円融無礙であり、如来蔵と一体不二で不生不滅、法界に遍満し湛然常住して業に随って顕現すると説かれる。七大種子が本来如来蔵の性質を具え、如来蔵と同様に不生不滅・不増不減・無垢清浄であり、互いに円融無礙に融通して虚妄の世間を形成するならば、七大種子は如来蔵と同様に不来不去・不空不有・不変不異にして清浄常住し、影像も無きものである。では七大種子によって構成される世間は如何なる様相・性質を有するのか。
七大種子は空無ならず、その功能作用と属性によって万法を形成し、不生不滅なる如来蔵心体中の実有法である。空無ならざるも相無く、世間の如何なる俗相も具えぬ故に凡夫の眼では見えず覚えず知り得ず、これを空と謂うも実は空性である。
七大種子が無相にして空でありながら不生不滅であるならば、如来蔵より生じ出でず、また滅して如来蔵に帰入することもない。七大種子が如来蔵の外に出ずして世俗の諸法を形成するなら、無相の法が有相の法を形成し得ず、世俗の法相も依然として空・無相・空性である。如来蔵も無相なるが故に有相の法を容れること能わず、互いに相容れぬ故に、一切の七大顕現によって形成された世俗法も必然的に無相でなければ如来蔵の空相中に存在し得ない。
では何故衆生は有相の世俗法相を見るのか。例えば衆生が四大色身や七大五陰身を見、甲地より乙地に移動し、五陰が躍然と現前し、我・人・物・時間・空間・場所を認めるのは何故か。四大五大は生じず如来蔵を出でないのに、何故俗相の色身や種々の物相が現れるのか。見大識大は生じず如来蔵の外に出ないのに、世俗の心相は何故生起し現前するのか。
色身は仮相妄相にして実在せず、五陰身も仮相妄相にして実在せず、甲地乙地も仮相妄相にして実在せず、時空も仮相妄相にして実在しない。虚妄に見えるものも、見ること自体が虚妄であり、幻もまた幻である。
一切の法は生じたことが無い故に滅も無く、七大種子は元来如来蔵の外に出ず、如来蔵より出でたことも滅したこともない。もし仮に存在するなら、如来蔵外に法が存在することになり、如来蔵との境界や関係が問題となる。一切の世俗法が不生不滅であるなら、究竟的に誰がこれらの法の生滅を見ているのか。何をもって見ているのか。見る者は生じたか滅するか。見る過程と結果に生滅はあるか。それは如何なる法相か。
如来蔵中に五陰身が甲地から乙地に移動する事相も、入胎出胎離身の事相も、法の生滅も存在しない。一切の事相法相は七識の妄見による虚妄の見であり、故に虚妄法を見るが実は其事無く、何事も存在しない。もし安らかに眠れぬなら、起きて仏法を学び、学びて後証し、一切法の実相を極力証得し、一切の法相を明瞭に見極めるがよい。世間の仮戯には本来人も劇も観客も無い。それは何か。夢である。夢ですらなく、夢も無い。誰が夢を見るのか。誰が劇を見るのか。人無し。
真にこれらの法を証得した時、号泣するがよい。無始劫来全く冤枉極まりなく、空しく無量の業行を造作し、種々の取捨・貪執・妄動・苦悩に心を砕き糾えたが、結局何も存在しなかった。哀れむべくはないか。
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