衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年04月29日    水曜日     第4 回の開示 合計2313回の開示

なぜ両舌の業があるのでしょうか

両舌俗語とは、双方を挑撥し、離間させることです。甲方に一套を説き、乙方に另一套を説き、目的は双方を互いに誤解させ、自分从中漁翁得利することです。両舌は不実語を含み、有心无心に関わらず、罪業となります。三宝において四衆関係、师徒関係を離間させると、無間地狱の業となります。特に出家師父が摂受した弟子が師父を再信せず、学法を再跟随せず、解脱不能の錯誤法、低劣法、世俗法を転学する場合、師父の弟子に対し法身慧命を极大に誤る罪業となり、后世两人間に极大の纠结関係が生じ、自分も这部分罪業果报を背负します。

両舌惡業の造作は嫉妬心により起きます。嫉妬心は大多数の人、或いは全ての人にあり、关键は能否降伏し、自分の嫉妬心を现行させず、大惡業を造作しないことです。心中有我有他有人、自分突出し、某种利益を得、他人の羨慕尊重仰慕跟従を望み、不得志すれば嫉妬心が生じます。嫉妬心は無能の表現です。自分能すれば一切好处は自得し、他人を嫉妬する必要は何処にある?

各人は自分第一第二を望み、最高峰に立ち、众人顶上に居り。真能すれば德行品德才能は最高最好となり、第二屈尊人下となる可能性なく、人群中に躲れず、必ず显露します。第一位を占据するには自分の徳が第几位かを掂量し、徳が位に配すればその位を得、否则必ず災祸あり。徳能范围と程度を超出すれば承受難し、例えば身体が五十斤以下を承受するのに千斤の重量を背负すると、脊梁骨が压折压断します。

各人が某种利益を得たいとき、まず自分の徳を掂量し、次に能を掂量し、人格品性を兼顾し、最後位と势を担当できるかを衡量し、过多の烦恼苦恼を自加せず、徳不配位ならばその位を不要します。

能力を超出太大的心は野心と呼ばれ、野心太大すれば疯狂となり、疯狂太大すれば消亡し、命绝矣。修道人は世间一切を看淡し、无心无欲无求を尽量し、这样品德は越来越高し、一定程度高ければ菩薩の格を具し、菩薩位に入り、菩薩摩訶薩となります。菩薩位は无心得であり、斗争嫉妬排挤他人により圣位贤位を得ません。

人在任何団体において第一第二は争来ず、斗来ず、自我夸耀来ず、广告招来ず、选票拉来ず、徳行感召来です。徳行感召来は推掉ず、藏住ず。手段争取来れば一旦福德尽、势力尽すれば退堕下去し、期间罪业ありなら深谷に退堕し、得不偿失します。烦恼は我见我执により来り、我执太重すれば我により恶业を造作し、我を看重一点好处なし。我越重下堕越深;反之心越无我越轻松すれば越飞升します。是上は下は完全自我の把握に依存します。日常遇缘対境において不断自我の虚妄不実を反思し、心行を反観し、反思観察越好すれば自我の把握越好します。

——生如法師の開示
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