自己の我見の落とし所を探求するには、自らの貪り求めるところから観察することができます。必要以上に求めることが貪り、道理に合わぬ要求が貪り、求めるべきでないものを求めることが貪りです。なぜこれほど多く求めるのでしょうか。心中に我があるからです。色身を見て我とし、受陰を見て我とし、想陰を見て我とし、行陰を見て我とする。それ故に五陰のために貪り求めるのです。もし心中に我がなければ、少欲知足となり、適度で止まることを知り、過剰に探し求めず、ましてや法にかなわぬ手段や道理に合わぬ方法、さらには他人を損なう方法で自らの利益を求めることはありません。
心中に我なき者は、心思を費やして求めず、縁に随って生き、手段を選ばずに求めることもありません。我なき者は何事も他人の立場に立って問題を処理し、他人の利益を考慮し、他人の心情を配慮します。ただしこの配慮は必ずしも他人の道理に合わぬ要求に従うものではなく、他人の長遠的で究極的な利益を出発点とし、その用心と行為は必ずしも他人の理解と同意を得られるものではありません。
心中に我ある者、我見の重き者は、必然的に我執も重く、人と接し事を為すに全て自心を出発点とし、自我を重んじ、自己の見解を基準とし、他人の意見や見解を求めず、他人の心情を考慮せず、往々にして自らの習気に従って事を成してから後で説明し、先に断行して後で奏上し、他人の利益を侵害するか否かを顧みません。もし他人が自分に従わなければ、逆上して報復手段を取り、自我の利益を取り戻し、心中の怨みを鎮め、結果を顧みません。このように自他との争いの中で、自らが勝利する毎に、無我修証の道から一歩後退し、生死苦の穴に一歩踏み込み、現世来世の苦難を重くするのです。
善く観察することは修行において重要な環節です。善く観察すれば、全ての事柄における真の利害得失を秤にかけ、長遠な利益は常に眼前の利益より重要であり、長期の効果は短期の効果を遥かに凌駕します。我見の重き者は目先しか見えず、往々にして眼前の些細な利益に目を曇らせます。これが所謂業障です。
業障とは何か。過去世の無明業因が自らの我見我執を増長し、智慧の生発を妨げ、事の真相を見極められず、何が自らの真実の利益かが分からず、無益なことを極大な利益と見做して求め、結果として道に背き、得る所少なく失う所多しとなります。
衆生は「無明」という用語が比較的婉曲で、「愚痴」が粗野に感じられますが、実は両語は同じ意味です。仏陀は愚痴という言葉で衆生の心性を総括されましたが、これですでに婉曲な表現です。仏陀は時に弟子たちに向かって「咄!痴人!」と叱咤されます。実は如何なる言葉を用いても、衆生の痴と愚を尽くし表現することはできず、何を言っても十分ではなく、何を言っても衆生は無反応で、ただ無言となるほかありません。須弥山を梃子にしても、衆生心中の痴・愚・鈍を動かすことはできないのです。
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