衆生無辺誓い度す
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日常開示

2020年04月21日    火曜日     第1 回の開示 合計2285回の開示

意根における我見

意根は六根の一つであり、十八界の一つである。五蘊と十八界は一対一の対応関係にある。「我、我、我」と執着する時、意根の「我」が頭をもたげる。六識が現すものは全て意根の心行であり、意根の心性が現れるのである。人の心を観察できる者は、人の本質つまり意根の心行を観察できるが、観察できない者は六識の外見に作られた仮相しか観察できず、仮相に惑わされる。今考えると、意根と意識を区別できない限り、我見を断つことは本当に難しい。

六根を観行する時、意根を観じることができる。それは意識を生じる根であり、同時に主導識でもある。この主導識の不断の変異性、不固定性、不自在性、滅する性質を観行すれば、意根が永遠に存在できず、その心行が不断に変化し無常であることを知り、従ってそれも我ではないと悟る。

意識の機能作用が我でないことを確認するには、まず意識が自らを反観し、意識が確認した後、禅定中の深細な観行によって意根が意識の観行に参与し、さらに思量参究を重ね、最終的に意根も意識の機能作用が我でなく「我に非ず、我と異ならず」と確認する。更に時処にわたって主導する意根の我も、その虚妄無我を確認し、空なる無常であることを知る。意識を生じさせる意根も非我であり、まず意識が確認し、最終的に意根自らが確認する。これ以前に五識の機能作用を観行し、その生滅無常無我を確認すれば、幾つかの識心の我見と我所見は断除されるが、我所見も断ち難いものである。

これら一切法の観行確認は、主に意根に確認させるためである。意識の確認は第一歩に過ぎない。意根が一切法を我と見做すからこそ、六識に執取を指揮させ、執取後は六識の執取作用を自己の作用と見做し、「我が如何ほどか」と考える。この我が現前し、明々と輝くのである。

意根は無始劫来、五蘊を我と見做してきた。色蘊を我と見做せば「身体が我」(身我見)あるいは「我が身体」(我所)と言い、色身を貪愛し、保養し、護持し、色身のために六識に一切の業行(悪業行を含む)を不惜身命で造作させる。

意根が受蘊を我と見做す時、時に我所と見做し、受蘊こそ我であり、我は受蘊であり、受蘊は我が所有するものだと考える。受蘊のために六識に一切の業行(悪業行を含む)を不惜身命で造作させる。

意根が想蘊を我と見做す時、あるいは我所と見做し、想蘊こそ我であり、我は想蘊であり、想蘊の機能作用は我が所有すると考える。我能く想い、想う法は即ち我の所有である。六識に一切の業行(悪業行を含む)を不惜身命で造作させる。

意根が行蘊を我と見做す時、あるいは我所と見做し、行蘊こそ我であり、我は行蘊であり、行蘊は我が所有するものだと考える。我能く行い、行うことは即ち我の所有である。行蘊のために六識に一切の業行(悪業行を含む)を不惜身命で造作させる。

意根が識蘊を我と見做す時、あるいは我所と見做し、識蘊こそ我であり、我は識蘊であり、識蘊は我が所有するものだと考える。我能く識別し、識別するものは即ち我の所有である。識蘊のために一切の業行(悪業行を含む)を不惜身命で造作させる。

——生如法師の開示
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