仏典はすべて仏の真実の言葉であり、仏は衆生を欺くことはありません。多くの人は自分が発する一言に大した意味はないと考えがちですが、その一言の重みは計り知れず、自らも気づかぬうちに重大な結果を招くことがあります。一瞬の善念は天上界に生まれ楽しむ因となり、一瞬の悪念は無間地獄に堕ちる因となります。特に仏法僧の三宝に関わる言行は世俗のそれとは全く異なり、極めて重大です。三宝を誹謗する一言は、事実か否かを問わずすべて地獄の因となります。不和を招く言葉、すなわち両舌は僧団の調和を乱し、僧侶同士、居士同士、僧侶と居士の間の和合関係を破壊し、これも地獄の因となります。最も罪業を造りやすいのは口であり、悪果を避けたいならば口業を善く護り、禍が口から出るのを厳に防がねばなりません。用事がなければ言葉を発さず、用事があっても必要最小限の良き言葉を選び、事なきに事を起こすことや無用の争いを避けるべきです。このように自らを清浄に保ち過ちを残さぬことは、賢明な智慧ある者の行いです。逆の行いは愚痴と煩悩に深く縛られた者の所業です。
誹謗には根拠なき誹謗(無根誹謗)と根拠ある誹謗(有根誹謗)があります。根とは証拠事実を意味します。存在しない事をあると言い、ある事をないと言う、事実を転倒させるのが無根誹謗です。事実を事実のまま述べるのが有根誹謗ですが、三宝に対する場合はいずれも誹謗に該当し、罪業は甚大です。僧の過失を語ることは大罪であり、事実であれ、故意なく他者に語るだけでも罪となり、悪意をもって広めるならその罪はさらに重くなります。
なぜ三宝に対する罪業が最も重いのでしょうか。三宝は世の衆生に対する恩恵が最も大きく、功徳が最も甚深で、衆生に解脱をもたらし、苦しみを離れ安楽を得させる、衆生にとって最高の福田であるからです。自らの福田に悪業を造るのですから、その罪は当然最も重く、影響も最大となります。もし自らの誹謗によって衆生が三宝への信心を失えば、それは衆生の解脱の道を断つことに等しく、この罪は如何なる罪よりも重いのです。
世俗においても、恩ある者に悪をなすことは人として恥ずべき行為であり、世の唾棄を受けるものです。ましてや仏法において、無量劫の解脱功徳をもたらす三宝に悪をなす罪が、どうして軽いことがありましょうか。
あらゆる悪業を造る者は、すべて煩悩によって、すなわち自他の区別を執着する心(我執)によって引き起こされます。貪・瞋・癡・慢・疑――貪欲の心が満たされず悪業を造り、瞋恚の心が己に逆らうものに怒り、愚癡の心が善悪是非を弁えず無知に悪業を造り、我執の炎が抑えきれず他を滅ぼして悪業を造り、疑いの心が因果の理を定めかねて悪業を造ります。
すべての悪業は我執によって造られ、すべての煩悩は我執から生じます。この我執こそが諸悪の根源です。我見を断たねば三悪道を輪転し、苦悩は尽きることがありません。よって学仏者は大いなる決意をもって、この罪の根源を降伏させ、ついには滅し去らねばなりません。そうして初めて自らは苦を離れ安楽を得、心は太平と安寧を得、天下は平和となるのです。故に我見を断つことは天下に福を及ぼし衆生を恵みますが、最大の受益者は他ならぬ自分自身です。我が無くなってこそ、真の幸福が訪れるのです。
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