衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年04月06日    月曜日     第3 回の開示 合計2250回の開示

大乗は仏説か?

大乗仏教が仏説であるか否かについて、インターネット上のフォーラムでは常に激しい論争が繰り広げられています。大乗を否定する側は、南伝仏教を学ぶ小乗の修行者たちです。彼らは主に『阿含経』を学び、戒律の遵守と禅定の修習を兼ねています。しかし大乗が仏の直説であることを信じなければ、当然如来蔵の教法も否定することになり、間接的に因果と輪廻をも否定することになります。

因果はどこから生じるのか?それは如来蔵によって実現されます。六道輪廻がなぜ存在するのか?それは如来蔵が不滅であり、業の種子を保持し、意根と共に来世へ赴き、来世の果報身を現起させるからです。

大乗が仏説であるか否かは、善根福徳と智慧ある者にとって考証の必要などありません。法の正誤は二度読み、思考すれば明らかになります。考証など必要でしょうか?考証に固執する者は、智慧が極めて低く善根福徳に欠ける者です。二千年来、大乗が仏説でなく後世の創作であると証明する考証結果は出ていません。そのような勝れた仏法を創作できる後世の者がいれば、その智慧は仏と等しく、実に驚嘆すべきことです。

南伝仏教がパーリ語『阿含経』を学ぶ者たちは、概して漢地の者より勤勉で真剣に修行します。しかし大乗を否定し如来蔵の存在を否定すれば、その善根福徳は極めて低く、如何に修行しても証果を得られません。仏説を信じず三宝への充分な信心がなく、仏への信が足りなければ、三帰五戒も成就せず証果できません。もし南伝に証果者がいなければ、伝承に誤りがあり、後続の者(漢地の者を含む)も修行しても証果できません。

南伝が戒律と禅定を重んじつつ大乗を否定する限り、その戒律には欠落があり、禅定も高くはありません。さらに大乗を否定すれば諸仏菩薩の加持力を受けず、個人の力だけでは如何に修行しても成就し得ません。仏在世時、外道たちが後に仏陀とその教法を深く信受したのは、三宝への信心を持ち三帰五戒を成就し、更に高い禅定と仏陀の説法を聞いて証果(時に四果)を得たからです。しかし大乗を否定する小乗者は証果できません。

大乗と如来蔵を否定する南伝の者たちの智慧は実に拙劣です。五陰身の由来を思惟分析すれば、不滅の如来蔵なくして如何に生死輪廻が存在し得るか分かるはずです。不滅の法がなければ、一生の修行に何の意味があるでしょうか?修行の種子はどこに存在するのか?種子を貯蔵する所がなければ、来世に如何にして修行の果報があり得ましょうか。

南伝仏教の優れた点に惹かれて学ぶ者もいます。禅定と戒律の面では南伝は確かに優れていますが、全体として仏法に強力な支柱がなく、実在の法に支えられていないのは空中楼閣の如く、修行の役に立ちません。無益なだけでなく、阿頼耶識の心田に断滅空の悪業種子を植え付け、来世に種子が発芽すれば再び断滅空論者となり三悪道に沈淪するでしょう。故に南伝仏教を学ぶ者は目を凝らしその弊害と結果を仔細に思惟し、速やかに退避すべきです。大乗を否定する断滅空の南伝仏教を宣伝し他者に影響を与える罪業は極めて大きく、地獄業となる可能性さえあります。因果は実に畏るべきもの、慎重に慎むべきです。

彼ら大乗仏法を見る者たちは皆、仏法の真実義を解読できず困惑し、仏の説く内容を理解できません。理解できないが故に否定に次ぐ否定を繰り返す愚かで憐れな姿は、善根福徳の欠如によるものです。彼らは自らの禅定が如何に優れているか語り、四禅定を得たと主張する者も多いですが、実際には初禅さえ怪しいものです。しかし彼らは確かに修行を重んじ努力しています。男性信者は漢地の者よりはるかに精進しています。漢地の男性は怠惰すぎて、亡者供養や収入を得ることしか知らず、真の修行を理解していません。

従って寺院に赴き亡者供養を求める者は、出家比丘を害するだけでなく仏教全体を害します。出家者に修行がなければ仏教は滅亡します。供養後にどうして仏法に精力と心境を注げるでしょうか?現代の出家者が昔に及ばず寺院の修行風土が劣化していると言われますが、この結果を招いたのは誰か?世俗の風潮と煩悩習気を寺院に持ち込んだのは誰か?寺院の修道環境を汚したのは誰か?僧侶の修道時間と精力を奪ったのは誰か?

南伝仏教の者たちが大乗仏法を理解できないならば、小乗仏法も完全には理解できず、故に証果を得られません。小乗仏法においても世尊は第八識如来蔵について説いていますが、用語が暗示的で直截な表現ではありません。彼らが大乗を否定することは間接的に小乗をも否定し、仏戒を成就せず解脱の望みも失います。

——生如法師の開示
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