衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年04月05日    日曜日     第2 回の開示 合計2246回の開示

『楞厳経』巻第九 原文(一)

原文:また彼の禅定中の諸善男子、色陰消散し、受陰明白なり。明悟の中に虚明の性を得たり。その中に忽然として永滅に帰向す。因果を撥無し、一向に空に入る。空心現前し、乃至心に断滅の解を生長す。悟れば則ち咎無し、聖証と為すに非ず。若し聖解をなせば、則ち空魔其の心腑に入る。乃ち持戒を謗り、小乗と名づく。菩薩の悟空、何の持犯かある。其の人常に信心檀越に於いて、酒を飲み肉を啖い、広く淫穢を行ず。魔力の故を以て、其の前人を摂して疑謗を生ぜしめず。鬼心久しく入り、或いは屎尿を食い酒肉等とす。一種俱に空じ、仏の律儀を破り、人罪に誤入す。正受を失い、当に淪墜に従うべし。

釈:若し聖解をなせば、則ち空魔其の心腑に入る。乃ち持戒を謗り、小乗と名づく。菩薩の悟空、何の持犯かある。

今この現象既に発生していることは、魔が常時仏法修行者を窺い、一旦機会を得れば必ず加持することを示す。

多くの者が悟ったと自覚し、三帰五戒や菩薩戒を守る必要無しと説く。それは凡夫の持つ有相戒であり、菩薩はかくの如く戒を持つ必要無しと。菩薩一旦悟れば心は空じ、心中に無相戒を具えると。しかし真の無相戒は、初地に入りて後一部を守持する能力を得、八地以上の菩薩心に至りて初めて真に無相となり、無功用行をなす。真に我見を断たざる凡夫、煩悩具足の者に、何の能力と資格あって無相戒を持し得んや。仮に真に明心開悟せりとも、煩悩を断除せざれば無相を成し得ず、無相戒を守持できず、有相戒すら守持困難なり。

何故『楞厳経』が最初に滅されたか。それは『楞厳経』が処々に明心証悟を促し、生死の大事を解決するが故に、後半に魔の悪行を余す所なく暴露するからなり。故に我らは必ず努力して『楞厳経』を学び修め、早々に魔王に滅ぼされざるを免れねばならぬ。

或る者達の仏法修行は真に注意を要す。一味に空を説き、何ものの存在も認めず、未だ証得せざるに、遂には因果を撥無すまでに空じ、胡乱に振舞い、虎の如く猛り、遂には地獄三悪道に堕ち、誰か汝を救わん。

幾多の人々が仏法を二日半学び、些か理解しただけで、大声で己の証悟を宣伝する。未だ何を証したかも知らず。殊更に聖人たらんとする者は、十全なる凡夫なり、凡夫相歴然たり。かかる者に対し、魔王と小鬼は手ずから擒にし、利用して仏法を破壊せしむ。利用済みとなれば三悪道に堕ちて報いを受く。或る者は網を張りて魔を待つが、魔は娑婆世界を離れたことなく、眼光炯々としてこれら仏法修行者を狙い、隙あらば憑依加持して所謂聖人となり、遍く経を説き法を演じ、仏の律儀を破り、仏教を毀損す。

浅き法を学ぶ者が容易に魔着するのではなく、深き法を学ぶ者が魔着し難い訳に非ず。『楞厳経』に仏説きたまう、仏法修行がある程度に至り、種々の境界を好み、自ら聖に入り仙と成れりと覚る者こそ魔着し易し。日々己の悟りを説く者、身口意の行い凡夫に及ばざる者こそ、魔着し易く、魔に利用され易し。他の者には利用価値無く、魔の付け入る隙も無し。

——生如法師の開示
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『楞厳経』第九巻原文(二)

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