如来蔵を真実の我と見做すならば、我見は断尽しておらず、これも依然として一種の我見である。法界の中には本来七識の我は存在せず、我が無ければ如何にして如来蔵が真我であり得ようか。根本的な七識の自体性が無ければ、如何なる我性も存在しない。如来蔵が真我であるという知見を確立するやいなや、同時に七識の我が確立される。七識の我が存在してこそ、如来蔵を真実の我と見做すのであり、七識が無ければ如何なる法も我と見做すことはない。
故に法を見ることは即ち妄見であり、妄見が無くなった時、必ず仏と成る。
禅宗第三関に修到した際、心に尚如来蔵の我を執すれば、禅宗第三関を通過できず、有余涅槃を証得せず、生死を脱すること叶わない。
観世音菩薩の耳根円通法門は、修めの極みに至れば、捨て得るものは全て捨て、空じ得るものは全て空ずる。捨てることさえ捨て、空もまた空ずる。能捨所捨、能空所空、及び空空ことごとく空じ尽くし、更に空ずべきもの無し。ただ孤零零たる如来蔵のみ残り、捨てることもできず、空ずることもできず、捨てる者も無く、空ずる者も無くなった時、即ち到着の境地に至り、三十二応身を成就し、大慈大悲観世音菩薩と称される。
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