臓器移植を受けた患者に拒絶反応が生じる場合、遺伝子などの各種要因以外に、臓器提供者の意根(いこん)による排斥が一因となります。大多数の臓器提供は本人の自発的意志によるものではなく、生前に臓器提供の意思表示をしておらず、家族が故人の臓器を提供する判断を下しています。もし故人が望まない場合、臓器が患者の体内に入るとき、故人の意根が干渉して排斥を引き起こすのです。あるいは生前に臓器提供を承諾していたとしても、臨終の際に完全に死が確認されない段階で臓器摘出のメスが入ると、故人が激しい苦痛を感じて瞋心(しんしん)を起こし後悔する場合、その臓器が患者の体内に入っても故人の意根が抵抗を抱き、患者に拒絶反応が現れる可能性があります。意根の作用は意識をはるかに超越しており、意識の有無にかかわらず常に働きます。したがって人の真の考えや態度、目的を見極めるには、口先の意識的な言葉に惑わされず、意根に内在する真実の思いと動機を観察しなければなりません。言葉巧みに弁舌を振るいながら、実際には正反対の考えを抱く者こそ、極めて偽善的な人物です。日常の人間関係においては相手をよく観察し、表面の意識が示すものだけを信じず、内心の意根を洞察する必要があります。意根は主導識(しゅどうしき)として、人の思想的資質を表し、真の修養を示す指標となるのです。
物を贈与する者の真意を見極めるには、心から贈りたいのか、それとも別の思惑があるのかを観察しなければなりません。同様に、他者の所有物を求める場合、その者が真に喜捨(きしゃ)する意志があるか、意根が同意しているか、意識では承諾しながら意根が拒む苦渋の選択かを見分ける必要があります。意根が不本意ながらも意識的行動として見栄え良く与えた場合、後々返済を求めるなど不都合が生じる可能性があります。
相手が内心では与えることを欲せず、面子(メンツ)を気にして渋々応じることを承知の上で強引に要求し、実際に無理矢理与えさせて相手を不快にさせる行為は、ほぼ公然の強奪に等しいと言えます。強奪と窃盗の関係は、いずれも相手の意根の同意を得ずに奪取する点で共通し、前者は露骨な奪取、後者は密かな奪取という違いがあります。この観点から人物の君子たるや小人たるやを判別すれば、君子は他人の善を奪わず、己の欲せざるを人に施さず、公明正大に振る舞い、陰で策を弄することはありません。一方小人は常に猜疑心に囚われ、陰険な手段を用い、心に鬼を抱え、邪な企みに満ちています。
取引において値切りの度を過ごし、相手の耐えられる限界を超えるまで要求することも、強奪や窃盗に匹敵します。従って物品購入時には過剰な値引き交渉を控え、相手の心理的余裕と受容範囲を配慮すべきです。これも人間としての修養と徳行(とくぎょう)の現れであり、仏が説く五戒十善(ごかいじゅうぜん)はまさに人間としての道を教えるものです。末法の世を見渡せば、真に人としての道をわきまえない者が多く、人たる道さえ達成できない者が我見(がけん)を断ち聖人となることは不可能と言わざるを得ません。
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