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日常法話

2020年03月09日    月曜日     第2開示 合計2197開示

楞厳経第三卷 見大虚妄

原文:阿难。见觉无知。因色空有。如汝今者。在只陀林。朝明夕昏。设居中宵。白月则光。黑月便暗。则明暗等。因见分析。此见为复。与明暗相。并太虚空。为同一体。为非一体。或同非同。或异非异。

解釈:阿難よ、見と覚はそれ自体には知性を持たず、色と空の二塵によって見覚が生じる。たとえば今あなたが祇陀林にいるとすれば、朝は明るく、夕方は昏い。もし真夜中にいるならば、陰暦十五日より前の白月のときには月光があり、十五日を過ぎた後の黒月のときには暗闇である。これらの明暗などの相は、見覚の性によって分析されて顕現したものである。この明を見暗を見る見は、明暗の相と太虚空と同一の体なのか、異なる体なのか。あるいは同でもあり同でなく、異でもあり異でもないのか。

原文:阿难。此见若复。与明与暗。及与虚空。元一体者。则明与暗。二体相亡。暗时无明。明时无暗。若与暗一。明则见亡。必一于明。暗时当灭。灭则云何。见明见暗。若明暗殊。见无生灭。一云何成。

解釈:阿難よ、この見がもし明と暗、および虚空と元来一体的であるならば、明と暗の二体は同時に存在できない。暗闇のときには光明がなく、光明のときには暗闇がない。もし見が暗闇と一体であるならば、光明が現れたときに見は消滅してしまい、光明を見ることができなくなる。もし見が光明と一体であるならば、暗闇が訪れたときに見は滅してしまう。もし見が滅してしまったら、どのようにして暗闇を見ることができようか。もし明と暗に差別があって一体でないならば、見性には生滅がないのに、三者がどのようにして一体でありえようか。

原文:若此见精。与暗与明。非一体者。汝离明暗。及与虚空。分析见元。作何形相。离明离暗。及离虚空。是见元同。龟毛兔角。明暗虚空。三事俱异。从何立见。明暗相背。云何或同。离三元无。云何或异。分空分见。本无边畔。云何非同。见暗见明。性非迁改。云何非异。

解釈:もしこの見精が明暗と一体的でないならば、あなたは明暗および虚空の相を離れて、見精の本質を分析してみよ、それはどのような形相なのか。明を離れ、暗を離れ、さらに虚空を離れると、この見精はもともと亀の毛や兎の角と同じである。明・暗・虚空の三者がいずれも異なっているならば、どの相から見精を確立するというのか。明と暗は相背き合っているのに、どうして同じだと言えようか。明暗虚空の三者を離れればもともと見というものはないのに、どうして異なるかも知れないと言えようか。そもそも同と異の問題になりえない。虚空と見とを分けてみても、二者にはもともと境界もつながりもないのに、どうして同じでないと言えようか。これもそもそも同と異の問題になりえない。明を見るにせよ暗を見るにせよ、見性は決して変遷改変しないのに、どうして異ならないと言えようか。

原文:汝更微细审详。审谛审观。明从太陽。暗随黑月。通属虚空。壅归大地。如是见精。因何所出。见觉空顽。非和非合。不应见精。无从自出。若见闻知。性圆周遍。本不动摇。当知无边。不动虚空。并其动摇。地水火风。均名六大。性真圆融。皆如来藏。本无生灭。

解釈:あなたはさらに微細に詳細に審査観察しなさい。光明は太陽から来たり、暗闇は黒月に伴い、通達無碍なるものは虚空に属し、壅塞不通なるものは大地に帰する。このような見精は何によって出てきたのか。見覚は形なく、空であって頑冥であり、和合性を持たない。見精が何の由来もなく自分から出てきたと考えるべきではないだろう。もし見聞覚知の性が円満遍周して法界に遍在し、もともと動揺しないならば、あなたは知るべきである。辺際のない動かぬ虚空、および動揺する地水火風は、いずれも六大と名づけられ、その性は真実円融であり、すべて如来蔵であって、もともと生滅がないのである。

原文:阿难。汝性沉沦。不悟汝之。见闻觉知。本如来藏。汝当观此。见闻觉知。为生为灭。为同为异。为非生灭。为非同异。汝曾不知。如来藏中。性见觉明。觉精明见。清净本然。周遍法界。随众生心。应所知量。如一见根。见周法界。听嗅尝触。觉触觉知。妙德莹然。遍周法界。圆满十虚。宁有方所。循业发现。世间无知。惑为因缘。及自然性。皆是识心。分别计度。但有言说。都无实义。

解釈:阿難よ、あなたの心性はいまだ沈没淪溺しており、見聞覚知がもともと如来蔵であることを悟っていない。あなたはこの見聞覚知が生滅なのか、塵境と同でも異でもあるのか、それとも不生滅であって、塵境と同異がないのかを観察すべきである。あなたはいまだかつて知らなかった。如来蔵の中においては、見性こそが真覚の清明性であり、真覚の見精こそが清明の見性であり、二者はともに本然清浄 (viśuddha/pariśuddha) であって、法界に遍周し、衆生の心に随順して、その知るべき量に応じて顕現するのである。

たとえば単一の能見の根は、法界に遍在する色法を見ることができる。聴く根、嗅ぐ根、嘗める根、触れる根は、一切の法を覚触し覚知することができる。奇妙な功徳は光明清浄 (viśuddha/pariśuddha) で、法界に遍周し、十方世界に円満して、どこに方向や処所があろうか。衆生はそれぞれの業力に依ってこれを発見する。世間の人は無知であって、愚かにも因縁によって生じたもの、あるいは自然に有るものと惑う。これらの思想観念が現れるのは、すべて衆生の識心の分別計較と度量の結果であり、言説があるだけで、いずれも実際の意義はないのである。

——生如法師の開示
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