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日常開示

2020年02月25日    火曜日     第2 回の開示 合計2159回の開示

『楞厳経』第三巻 眼根と色塵における虚妄

原文:また阿難よ、いかにして十二処が本来の如来蔵の妙なる真如の性であるというのか。阿難よ、汝しばらくこの祇陀林および諸々の泉池を観よ。いかんと思うか、これらは色が生じて眼に見えるのか、眼が色相を生ずるのか。阿難よ、もし眼根が色相を生ずるならば、空を見て色にあらざる時、色の本性は消滅すべきである。消滅すれば顕発するものは一切皆無となる。色相既になきにおいて、誰が空質を明らかにするのか。空もまたこの如し。

釈:世尊は仰せられた。阿難よ、なぜ十二処が本来如来蔵の妙真如性であると言うのか。阿難よ、汝しばらくこの祇陀林およびすべての泉池を見よ。どう考えるか、色を見るこの現象はどのように生じるのか。色相そのものが眼識の見を生じたのか、あるいは眼根が生じ出した色相なのか。阿難よ、もし眼根が色相を生ずるならば、虚空を見る時、虚空に色相なきが故に、眼根が虚空を見れば色相は消滅すべきである。色相が消滅すれば、色を見る見もまた消滅する。色を見る見が消滅すれば、虚空を見ることができず、何ものも見えなくなる。色相がなければ眼根には見がなくなるが、しかも虚空の無きことを知ることができる。いったい誰が空無一物なる虚空を明らかにするのか。しかし汝は明らかに虚空を見ている。汝の見は消滅しておらず、色相の消亡に随って消え去らない。これは眼根が色相を生ぜず、別の存在が色相を生じていることを示す。

原文:もし色塵が眼の見を生ずるならば、空を観じて色にあらざる時、見は即ち消滅すべきである。消滅すれば一切皆無となる。誰が空色を明らかにするのか。故に知るべし、見と色空とはともに存在の処所なく、すなわち色と見とは二つの処、虚妄にして、本来因緣にあらず、自然性にあらず。

もし色塵が眼の見を生ずるならば、虚空を見る時、虚空は色相なきが故に、虚空は眼の見を生ぜず、この時の能見性は無くなる。そうなれば一切の想いも皆無となる。このような状況において、いったい誰が虚空の無色なることを知り明らかにするのか。故に説く、能見性と虚空および色塵には何らの処所もなく、色塵と見性はともに虚妄にして、因緣性にも自然性にもあらず、当然如来蔵の性質である。

ここに仏陀は如来蔵が色相を生じたことを暗に示す。この色相は内相分であり、外色の影であり、如来蔵の二次的顕現、あるいは顕発と呼ばれるものなり。もし色相が眼識の見を生ずるならば、虚空は色相にあらざる故、見を生ぜず。虚空を見る時には見が無くなる。見が無ければどうして虚空を見て知ることができようか。

故に知るべし、眼識の見と色相と虚空には処所なく、色相と眼識の見はともに虚妄にして、因緣性にも自然性にもあらず、如来蔵性より出ずる。如来蔵が一切法を生ずるという立論は成立する。故に世尊は実質的結論を下される:一切法は如来蔵より出生し、唯だ如来蔵の心の現わすところである。

十二処、六根と六識について、世尊は衆生に告げられる:これらは皆如来蔵性であり、如来蔵より出生する。六根六識に自体性と真実性なく、出生された法にして幻化の実ならざるものなり。色相と眼識の見には処所なく、自体性なく、本来より有るものにあらず。故に世尊は虚妄なりと説かれる。

阿含経における根・塵・識を理解すれば、楞厳経を読むのは容易となる。六根が六塵に触れ、その後如来蔵が六識を出生し、六識が再び六塵に触れて見が生ずる。実はこの三者が常に和合触するが故に、連続不断の見がある。六根は既に出生を終え、外界の六塵は既に出生された後、如来蔵が再び外界の六塵を内六塵に変幻し、勝義根が内六塵に触れ、六識が現れて内六塵を分別する。このように見れば、六根六塵十二処の虚妄なること明らかならん。何処より出生したかもまた知られるべきである。

——生如法師の開示
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