問:恐れの心が頻繁に現れますが、恐れは心所に属するのでしょうか?なぜ百法の中に恐れという心所がないのですか?内心の恐れは、意識の恐れですか、それとも意根の恐れですか?理由もなく漠然とした恐れを感じる場合、それは意根が恐れているのでしょうか?答:恐れという心作用は五十一個の心所法の中に見当たりません。衆生の心所法は種類が非常に多く、五十一個の心所法は大まかに分類したものであり、特に非常に微細な心所法まですべて含まれているわけではありません。もし全てを含めれば数百にものぼります。「大乗百法明門論」に記載されている心所有法は完全ではなく、千法明門・万法明門・億法明門が存在し、百法明門以外にも極めて多くの法が含まれていないため、恐れも心所法に属しますが、百法明門にはまとめられていないのです。したがって仏法を学び修行する際、現在接している法が絶対的で変更不能だと教条的に考えるべきではありません。恐れる人や事柄を思い浮かべる時、まず意根が感知し、理解できない時や何かを為そうとする時に意識が詳細に考え反応を示します。恐れには二つのレベルがあります。浅いレベルの恐れは意識心のもので、根本に触れず身心への影響や結果を生じません。深いレベルの恐れは意根のもので、深刻な場合は恐怖と呼ばれ、内心の動揺が大きく身体に様々な反応が現れ、気息・血液・神経伝達に変化を引き起こし、四肢や内臓器官の病変を促します。睡眠中に意根が周囲の環境変化を感知して恐れを抱くと、六識を覚醒させて恐れるべき事態の確認を促します。悪夢を見ている時、意根が強く恐れると意識を覚醒させて夢から脱出させます。意識の恐れと意根の恐れは異なり、意識の恐れは身体に変化を生じませんが、意根の恐れは身体症状(震え・蒼白・心臓の収縮・血流促進など)を伴います。意根の恐れは情緒的にも反応(緊張・焦燥など)を示します。これらの症状は意根の恐れを示しており、意識の恐れだけでは真の恐怖ではなく身体反応を生みません。意根は伝達神経を制御して全身の動作を指揮するため、意根が動けば全身が反応します。意識の働きだけでは全身を動かせません。神経伝達は意根が指揮し、意識が指揮するものではないからです。理由もなく漠然とした恐れを意識が感じ、何を恐れているか分からない場合、それは意根の恐れです。意根の恐れは意識に説明できず、意識は理解できないままただ恐れを感じます。つまりこれは意根の恐れ、心の深層における恐れ、すなわち意根そのものの恐れなのです。
0
+1