衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年11月11日    月曜日     第2 回の開示 合計2025回の開示

四念処の修行方法

四念処経は定慧を共に修め法眼浄を得る非常に優れた経典です。我々に定力と慧力がなく、心が粗雑で自己を反観できないため、この経典は如何にして心を微細なレベルまで修め、次第に明晰に自己を観察し、自身の生滅変異が実体なきことを認め、更に我見を断除して小乗の四果を証得するかを教えています。

経中では四念処観行の修行法を説いています:身念処観・受念処観・心念処観・法念処観です。身念処を観じる時、まず呼吸を観察し、心念を絶えず呼吸に随わせます。心を一法に縁じ定を得て止まり、その後観を起こし、色身の生滅無我を証得します。その後全身を観じ、自身の身行作務を徹底的に観察し、現在何をしているかを明瞭に知り、最後にはただ一つの身念が残ります。その念を空じ、念想を捨て、内心で一切法が空であり我ならざることを知ります。

将来禅を参究する際には、定力によってこの念を参禅の公案や解決すべき法義に置き換え、行住坐臥にこの参究の念を帯びれば、時至れば法義を参究し得ます。今我々の心は未だ不覚で、自己を知らず自らを観ずることもできませんが、定を修めて心を微細にすれば、よく自己を知り、知ってこそ自らの問題を解決できます。

修行を続ければその妙味を覚えます。初めは苦に感じ、心が束縛を嫌い葛藤するも、習慣化すれば随所で自己を反観し、身の所作・心の動きを明察し、身口意の行いを透徹して知り、己れと敵を知れば百戦危うからず、自らの問題を解決します。法を以て自らを照らし、法に適うかを管理し、自らを治め得れば将来他者を導く力が生じます。己すら治め得ぬ者は菩薩として衆生を導くことはできません。

現在の造作がすなわち身見我見であることを悟るべきです。これらの行為を実体と見做し我として執着する時、反観できればこれが我執であり、一切法の機能作用を実体視するのが法執です。まず観察できれば良しとし、実行可否に拘らず、遅早必ず達成できます。恐ろしいのは、今の自分を知らず、自らを観察できないこと、つまり無明です。自らの知見が誤りであること、執着と無明あることを知らねば、如何にして改めましょうか。

呼吸観から身を観じ身念処を修め、次に受念処を修めます。衆生は多く自らの感受を快適にせんと心を駆りて種々の業行をなしますが、これらの感受は全て生滅する六識の機能作用であり、意根の作用も含め、全て生滅変異して定まらぬものです。次に心の無常を観じます。初めは意識の六識心を観じ、最終的には意根に及びます。内容は簡潔ですが、各段落の観行を熟達するには長期間を要し、その期間は人によって様々です。

四念処経の最後に説かれる法無我とは、一切法の不善第八識たる我を指すのではなく、小乗の観行はこのように観るものではなく、このような観方では証果を得られません。小乗における我とは壊れ散じる我を指し、実は恒常不滅の我は存在せず、一切法は皆恒常に存在できず、遅早滅び去る故に法無我・我ならざると説くのです。

——生如法師の開示
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