比丘よ、もし使に随って使う者は、すなわち使に随って死す。もし死に随う者は、取によって縛られる。比丘よ、もし使に随って使わざれば、すなわち使に随って死せず。使に随って死せざる者は、取によって解脱す。比丘、仏に白して言う「知りました、世尊。知りました、善逝」。
仏は比丘に告げた「汝、いかにして我が略説した法の中に広くその義を解したのか」。比丘、仏に白して言う「世尊、色は使に随って使われ、色は使に随って死す。使に随って使われ、使に随って死する者は、すなわち取によって縛られます。かくのごとく受・想・行・識も、使に随って使われ、使に随って死し、使に随って使われ、使に随って死する者は、取によって縛られます」。
「世尊、もし色が使に随って使われず、使に随って死せず、使に随って使われず、使に随って死せざる者は、すなわち取によって解脱します。かくのごとく受・想・行・識も、使に随って使われず、使に随って死せず、使に随って使われず、使に随って死せざる者は、すなわち取によって解脱します。かくのごとく、世尊、略説された法の中に広くその義を解しました」。
仏は比丘に告げた「善哉、善哉。比丘よ、我が略説した法の中に広くその義を解した。所以は何ぞや。色は使に随って使われ、使に随って死し、使に随って使われ、使に随って死する者は、すなわち取によって縛られる。かくのごとく受・想・行・識も、使に随って使われ、使に随って死し、使に随って使われ、使に随って死する者は、すなわち取によって縛られる。比丘よ、色が使に随って使われず、使に随って死せず、使に随って使われず、使に随って死せざる者は、すなわち取によって解脱す。かくのごとく受・想・行・識も、使に随って使われず、使に随って死せず、使に随って使われず、使に随って死せざる者は、すなわち取によって解脱す」。
釈:仏は言われた「比丘よ、もし人が自らの煩悩の結使に随順して身口意の行いをなせば、これらの煩悩の結使に随って生死を輪廻する。煩悩の結使に随って生死を輪廻するならば、自らの執着によって縛られ解脱を得ない。比丘よ、もし煩悩の結使に随わず身口意の行いをなさざれば、結使に随って生死を流转せず。結使に随って生死を流转せざる者は、三界の法への執着から解脱する」。比丘は仏に申し上げる「覚りました、世尊。覚りました、善逝」。
最初の「使」は煩悩の結使を指し、その数はおよそ九種、細かくは無数にある。第二の「使」は使役の意。いかなる法をも執取することは即ち煩悩の執着となり、結使に随うこととなり、生死輪廻を招く。各々の結が展開すれば無数の煩悩を包含し、世俗界における身口意の行いに顕現する。要は観行によって五陰の無我を照見し、調伏断除することにある。修行の成果は各人の世俗における身口意の行い、五陰身の造作に現れる。身口意が清浄化されねば、すなわち修行未成就、道業不進步、修行不力なるを示す。修行の検証は五陰身の身口意行と七識心の心所法、即ち七識の心行においてなされるほかはない。真如心の作意を検証する者なく、真如の作意は常に清浄、無明なく、煩悩なく、一切の結縛なきもの。かつ各人の真如本性は同一にして修行を要せず。
仏は比丘に告げた「汝、いかにして我が略説の要法において広く法義を解したのか」。比丘答えて「世尊、色陰が煩悩の結使に使われれば、色陰は結使に随って生死を流转す。自らの煩悩の結使に使役され、そのまま身口行を造作し、結使に随って生死を流转する者は、執取によって繫縛され解脱を得ず。かくのごとく受・想・行・識も結使に随い使われれば、生死を流转す。結使に使われ身口意行を造作して流转する者は、執取によって縛られる」。
「世尊、もし色陰が煩悩の結使に使われず、結使に随って生死を流转せず、結使に使われず生死を流转せざる者は、五陰世界への執着から解脱する。かくのごとく受・想・行・識も結使に使われず生死を流转せず、結使に使われず生死を流转せざる者は、執着より解脱します。かくして世尊、略説された法要に広くその義を通解いたしました」。
仏は比丘に告げた「善し哉、善し哉。比丘よ、汝よく我が略説の法要に広く其の義を通解せり」。所以は何か。色陰が結使に随う時、結使に随って生死を流转し、結使に随って身口意行を造作し、生死を流转する者は執着に縛られる。かくのごとく受・想・行・識も結使に随い生死を流转すれば執着に縛られる。比丘よ、色陰が結使に随わざれば生死を流转せず、結使に随わざる者は解脱を得る。かくのごとく受・想・行・識も結使に随わざれば、五陰世間への執着より解脱する。
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