衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月26日    木曜日     第1 回の開示 合計1937回の開示

研究と参究の違い

研究とは定力がない、あるいは定力が不足している現れである。定力が不足すると意根が力を発揮できず、意識のみで思惟分析・推理判断するため、表面を漂うだけで法義の深層に入れず、深遠な内実を探求することができない。得られる結果も浅薄で表面的、要領を得ず、精髓に至らない。定力なき時は心神散漫、発散的な思惟となり、力強さを欠く。ちょうど蜻蛉が水を掠めるが如く、専一に深く入り込み、法の来歴を明らかにすることができない。結果として実証性を欠き、具体的な実践方法と手順を示すことができない。

これに対し参究の思惟活動は、一定の禅定力を基盤として行われる。思惟は深微で専一、透徹している。まず意識が心を用い、次に意根が参与し、最終的には意根の思想活動が主体となり、その機能が最大限に発揮される。このような心の使い方は極めて力強く、法義の深奥に直達し、細部に至るまで明察できる。疑情さえ打破し、結果として深く信じて疑わず、思想の束縛を断つ。参究の成果は他者から見ても完璧で、他人に修行の着手処を与え、思路を導き、自利利他の目的を達成することができる。

古来、研究者と呼ばれる者は文人墨客が多く、彼らは定浅く情執深く、文字の表面に拘泥し、仏法を浅く味わうだけで深淵に潜り宝を掴むことができず、潭辺で清水を掬うのみである。仮に深淵に入ろうとも定力不足のため、錐の尖端のような鋭い思惟力を発揮できず、法の深義を得ることができない。故に唐宋期の李白・白居易・蘇東坡らの仏教思想は仏教発展を促す力なく、民国期以前の胡適・豊子愷ら文人の禅宗著作も膨大ながら、所説は皮毛に過ぎず、禅宗の真髄に触れていない。一読する価値も乏しく、数言でその限界が明らかで、広く学人に参考となる所なく、ましてや仏教に影響を与えるべくもない。

研究を好む者は定浅くして言多く、文字は豊富ながら思想貧困、著作は身の丈を超えても糟糠多く栄養少ない。参究者は定深くして寡黙、思想透徹し精髓豊かである。達磨大師・傅大士・宝志公、唐宋期の禅師たちは著作こそ少ないが、一語千金、一言が数十年の参究に値する。その言葉は行いと符し、行いは言葉を体現し、言行永遠に一致、表裏一体で道者の風格を顕す。禅師の著作語録は修行の過程と体得を表すのみならず、做人の品格と菩薩の風格を蔵し、全て実修実証の成果である。これこそ仏教の宝蔵であり、大衆に無量の利益をもたらす。

故に自らを救い衆生を救済し、仏教の発展を促さんと欲するならば、定中に深く参究実証し、成果を証得して自利利他を行う以外に道はない。これこそが仏教発展を推進する真の力である。

——生如法師の開示
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