事に随って行を取り、識に随って行を取り、如に随って行を取る。行とは識心の活動、特に六識の識心活動を指し、菩提行、菩薩行、修行を含む。この文は主語である意根を省略している。なぜなら「取」は主に主識たる意根が執取する行為であり、その後六識の行が生じるからである。六識がどのような行を持つかは、意根がどのような「取」を行うかによる。意根は何に基づいて取るのか。事相、六識の了別・思択・判断、業、菩提心、願力などによる。最後の「如」は一般に真如自性を指すが、凡夫衆生の意根は真如自性の存在を知らず、悟りを得ていない菩薩も真如自性が何たるかを知らないため、直接真如の思択に随順することはない。しかし真如が業種に随順して業行を現行させようとする時、意根は業種に随順し、抉択を起こし思択を行う。これもまた意根の行である。
一文において主語・述語・目的語を見出せば、主語が何を為そうとし、対象が何かを知ることができる。これら三つの文では主語が明示されていないが、「取」という述語と「行」という目的語から、主識のみが法を取り、行を取って抉択を行えると判断できる。
「取」の前提条件は事・識・如に随うことである。この三文字の内実を明らかにすれば、意根が取り行う「行」の内容が分かる。意根がどの法を取ろうとも、一旦取れば必ず後に「行」が生じる。従って意根が抉択を下せば、六識がそれを実行に移すことを知るべきである。六識の行とは五蘊の身口意行であり、善行か悪行か、大行か小行か、無我利他行か自己利益行かが問われる。
「取」が意根による執取である以上、その後に法が現れることを知るべきである。一切法の出生、三界世間の存在、五陰身の輪廻など、全ては意根の執取の結果である。よって三界法の仮の主人は疑いなく意根に属し、意根の重要性は六識を遥かに超越する。意根が法を取らなければ六識は出生せず、意根の取を実現する必要もない。
十二因縁において、意根の執取がなければ生死輪廻は存在しない。生死輪廻の主因が意根にあることは明らかである。なぜ意根は執取するのか。無明の故である。意根の無明がなければ一切法は廃滅し存在しない。これほど多くの仏教修行者が意根に工夫を凝らさず意識のみを顧み、主人を省みず従者に随順するのは対象を誤っている。その結果はどうか。骨折り損のくたびれ儲けに終わる。今日に至り証悟の原理が明らかに説かれているにも関わらず、未だに意識のみで我見を断ち明心すれば足りると主張する者の知性とは何か。真に恭うべくもない。
修行者が問題に遭遇した時、如理思惟を学び、一定の論理的思考能力を備えることが最大の財産となり、生生世世にわたって尽きることなく活用できる。
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