定力が不足すれば、佛法を思惟観行できず、読書は走馬観花のようなもので、要点を得られない。修定の際は只管去定し、定が深すぎることを恐れる必要はない。定が深くても問題なく、出定後に参究思惟佛法を行うと、内心清净になり、心思細密で、观行は相当得力し、禅定なし或いは定浅よりも收益大である。定は深ければ深いほど良い、定中で身心を转变した後、再び参禅思惟観行を行うと、非常得力し、得心应手で、观行は非常に速く、且到位である。
外道が四禅八定を修出した後、仏の法を聞く即時に证果を得る。これは甚深の禅定に受益し、出定後に法を聞き思惟观行すると、智慧は速く出生する。禅定なしの人々は、理を少し明らかにすれば知足し、观行智慧が出ず、二十年経っても進歩なし、道業は根本的に增进できない。また、定を修する人々中には、定の境界を貪图し、定中で享受し、感觉を玩し、各種境界が殊勝であると思い、修行为何、修定为何を知らず、这样的人々は純属に感觉を玩するもので、修行ではない。
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