衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月07日    火曜日     第1 回の開示 合計1504回の開示

意根は捨受であるか?

捨受の心は、一切の好悪の境界に対し心に住することなく、心に執着せず、一切の境界を平等一如とし、欣ぶことも厭うこともなく、貪ることも瞋ることもありません。このような心こそが解脱の心、寂浄の心、無為の心であり、第八識はまさにこのように、心に住することなく執着せず、瞋らず喜ばず、平等一如として一切の境界に対し如如不動で、完全に捨受しています。もし意根が捨受であるならば、如来蔵と同じく一切の法を平等一如とし、一切の境界に対し如如不動で、瞋らず喜ばず、貪瞋痴がなく、寂浄解脱しているはずです。そうであれば、衆生は修行して解脱を求める必要がなくなります。したがって、意根は単に捨受のみではなく苦楽受も有すると説かれるのです。意根は善悪の薫習を受け、善悪の業を造作するため捨受ではなく、衆生が種々の貪瞋煩悩を有することは、意根が捨受でないことを示しています。第八識は一切の法に対し貪瞋を起こさない、これこそが真の捨受の心です。

瑜伽師地論第六十三巻には、意根が三受を具足することが説かれています。「又諸の転識は、或る一時には一切唯だ楽受と相応して倶に転じ、或る一時には苦受を有し、或る一時には不苦不楽等の受と相応して倶に転ず。阿頼耶識相応の受は、一切時に於いて唯だ不苦不楽なり」ここでは八識の受について述べられ、唯だ阿頼耶識が捨受であり、その他の諸転識は三種の受を有するとされます。諸転識とは七つの流転する識を指し、七転識は時に楽受と相応し、時に苦受と相応し、時に不苦不楽受と相応すると説かれています。

修行を積むほどに情緒が薄れ、捨受と相応するようになります。七覚分の最後は捨覚分であり、心境が非常に平穏で起伏がなく、如何なる境界に遇っても平静で、心は止水の如しです。ここには意識の捨受と意根の捨受が存在し、もし意根が捨受でなければ意識は捨受できません。意根が識を転じて智となった後も、一切時に於いて捨受ではなく、時に情緒的な状態も現れますが、以前よりその頻度が減り軽微になります。阿羅漢は我執を断じ貪瞋痴の煩悩を除去したため、心が平淡である時が非常に多いですが、一切時に於いて捨受ではなく苦楽受も存在します。意識が煩悩を断じ識を転じて智となった後、捨受が次第に増え情緒化が減り、苦楽受が少なくなります。如何なる苦しみがあっても阿羅漢は通常苦を感じず、如何なる楽しみも貪愛がない故に楽と認識しません。

しかし阿羅漢の意根には依然として苦楽受が存在します。さもなければ、彼らが娑婆世界の苦を避けて無余涅槃を選択し、苦を離れ楽を求めることはないでしょう。もし阿羅漢の意根が五陰世間の苦を感じなければ、灰身泯智し、一切を顧みず涅槃に入り、苦を滅して清涼快樂を図ることはありません。小乗で修する苦集滅道の四聖諦は、意識が修し終えて意根を薫染し、意根と共に苦集滅道を証得します。したがって意根も意識と同様、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修する必要があります。意根は最終的に苦を知り集を断ち、修道によって自らを滅することを希求します。ここから、意根は必ず苦を知り苦受を有するが故に、断固として集を断じると分かります。

甚深な禅定を得た時、思惟観行によって仏法を観じることで、初めて事実の真相を観じ、真実の智慧が生起します。これによって真に法に依ることができ、権威ある名人に依存する必要がなくなります。禅定がなければ観行思惟ができず、往々にして人に依ることになり、法に依ることは不可能です。他人の言論を暗誦するのは全て人に依る行為であり、法に依るとは事実真相に依ることを指します。事実真相は禅定中の観行思惟によって明らかになり、決して名言名句を暗誦する復唱機の如きものではありません。現在のネット上には復唱機が溢れ、人々は自らを得意げにし、学識豊かで知識が豊富だと勘違いしています。仮に学識が百車分あったとしても、生死とは何の関係もなく、生死を解脱することはできません。

——生如法師の開示
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