一切の法の修証は、最初から身見を降伏し、身見を断除することから始まります。衆生が無始劫以来初めて仏法に触れる時は、全て五陰の色身を認識することから始まり、どれほどの劫を修行したか分かりませんが、善根と福德が厚くなると、大乗菩薩法に触れ、次第に自身の中に真心如来蔵という本心があることを認識します。しかしこの時点でもまだ身見と我見を降伏しておらず、ましてや断除などできていません。
我見の断除は信位の菩薩以降の第六住の果位に属し、我見という仮の我が倒れた後で初めて真心が発見されます。この時、明心することが即ち住位の第七住の果位となります。従って必ず我見を断つことが先で、真心を証得することは後になります。たとえ大乗菩薩が参禅する場合でも、参究の過程では皆、次第に身見と我見を降伏させ、その後で身見と我見を断除していくものです。明心した後に身見・我見が依然として存在する状況はあり得ず、もしそのような現象があるならば、その人は明心しておらず、真の参禅の段階を経ておらず、深く参究もしていないことを示しています。その人の果位には何か怪しい点がある、あるいは出所が不明だと言えるでしょう。
全ての修行者は、身見を降伏させるという関門から逃れることはできません。大乗であれ小乗であれ、あるいは外道であっても同様です。身見とは、色身を実体あるものと見なし、それを「私」であると考えることです。身体は私のために利用できるものであり、私は身体を借りて一切の法を識別し、感受・思考することができるため、色身に貪着して執着してしまうのです。
身見の外的な現れは、色身のために衣食住行に努め、食べること・飲むこと・眠ることへの貪り、身体に良い飲食・衣服・臥具などを享受させることです。毎日、色身のために膨大な時間と精力、財物を費やし、非常に衛生的に気を遣い、毎日着替えをし、一日に一、二度は入浴し、毎日様々な手入れを惜しみなく行います。
潔癖症は身見に属します。なぜ非常に清潔を好み、しょっちゅう洗い、しょっちゅう拭くのか、それほど衛生的に気を遣うのは、色身という「私」を非常に大切に守っているからであり、色身を非常に実体ある「私」と見なしているのです。なぜそれほど食事に気を遣うのか?色・香・味が揃い、さらに栄養も必要とし、残った料理は量に関わらず全て捨てて、残り物を食べないのは、色身が私であり実体であると考えているからです。少しでも我慢させてはいけない、少しでも不浄があってはいけないと思っているのです。
身見のもう一つの現れは貪欲です。これは最も深刻な身見・我見です。貪欲の断除は初禅定以降の三果の段階にありますが、精進して修行さえすれば、貪欲の心の働きは次第に軽減され、薄らいでいきます。たとえ身見や我見を降伏・断除していない段階であっても同様です。
普段、心の中が色身という「私」で占められ、多くの心遣いと時間を奪われていると、仏法は容易には心に入ってきません。心が世俗の法でいっぱいだと、仏法は入る余地がありません。世俗の法を取り除いて初めて、仏法が入ってくるのです。心の容量は有限であり、これがあればあれは存在できないからです。大量のゴミでいっぱいなら、どうして宝を収められるでしょうか?
私たちが修道の過程でまずすべきことは、自身の身見が非常に重くないか、色身を宝物のように愛でる現象が非常に深刻でないかを点検することです。もし点検できたなら、克服し対処する方法を考えねばなりません。これが修道における最も深刻な障害だからです。
仏法を思惟する過程で次第に気づくでしょう。この色身はあまり実体がなく、少し把握しきれないものであると。修道心が起こった時には、すでに色身の手入れに時間を費やす余裕はなくなり、そうすることで身見の習気は少しずつ降伏していきます。観行を究めると、ようやく色身が確かに生滅無常で実体ではないと認め、身見を断除するに至るのです。
身見を断除した後は、色身への貪愛の現象が大幅に軽減され、心を道業に用いることができるようになります。三十七道品を修行する過程で、身見は次第に薄れ、身体に執着する行為も減少し、精力をより多く道業に注げるようになります。三十七道品の修行を経ていない者には、これらの現象は変わりません。
身見は最も粗大な煩悩に属します。これを降伏・断除しなければ、他の修証は全く語るに及びません。最初の関門を突破できなければ、その後全ての関門も突破できず、明心開悟など論じる余地はありません。
どれほどの人が、この基礎すら修めていないのに、自分は開悟したと思い込んでいることでしょう。自身の心の働きをよく点検すべきです。なぜ自身の果位をそれほど気にかけながら、解脱を気にかけないのか?この「気にかける心」こそが深刻な「我」であり、この心も断除して初めて我見を断つことができます。真に我見を断った者で、毎日心の中に「証果した私」「聖人である私」が存在する者はいません。真に我見を断った後にそのような「私」が存在することは不可能なのです。
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