衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年09月25日    金曜日     第1開示 合計4848開示

発願には、表層意識による形式的なものと、意根の真摯な誠心によるものの二種があります。真の発願とは、必ず心の奥底から発せられるものであり、すなわち意根から発せられるものです。意根が発願すれば、その願いは遅かれ早かれ必ず実現します。なぜなら意根には力強さがあり、抉択ができ、主となることができ、滅することなく、未来世へと赴くことができるからです。未来世においても、意根は自ら気づかないうちにその願いを実現することができます。最も重要なのは、如来蔵 (tathāgatagarbha) の随順と協力があることです。たとえ意識が消失したり、昏睡して自らをコントロールできなくなったり、意識が入れ替わったりしても、意根は常に存在し続け、自らの願いを実現することができるのです。

極楽世界への往生もまさにそうであり、意識が知らないうちに、意根が如来蔵を連れて極楽世界へ行き、蓮華を造り、往生の際にそれに乗って速やかに極楽世界へ赴くようにします。もし心の奥底の意根が往生を望んでおらず、口先だけ言っているのであれば、蓮華は現れません。蓮華を造るということは意識の言う通りにはならず、意根が主となり、次いで如来蔵が協力することによって、蓮華の宮殿を造り出すことができるからです。したがって、物事を行う際に意根まで深く及ばなければ、いかなる実質的な作用も何もないということになるのです。

清浄 (viśuddha/pariśuddha) な大願が意根から発せられ、意根と相应するとき、それは種子として蔵され、後世において意根が種子と相应し、願いと相应すれば、悪業を造らず、願いを実現することができます。これが無表色の戒体の起用です。意識は後世においてすでに入れ替わっており、元のものではなく、自分が発願したことも覚えていません。事に遇えば、なすべきことを従来通り行うだけです。意識の発願は、後世に対して大きな影響を与えることはなく、無表色を形成することができないため、戒体の出現はありません。それゆえ、戒場で受戒し発願する際には、いずれも厳粛に、真剣に、そして誠心誠意をもって行い、心を込めて観想し、さらに仏力の加持を求めてこそ、戒体を得ることができるのです。

たとえば、私たちが学仏において発する四弘誓願、また初地に入る前後に発する十無尽願は、これらの願いは誰が発したのでしょうか。まず私たちは学仏を通じて、意識心が発願の重要性を理解し、発願によって早く成仏でき、無量の衆生を広く度することができることを知ります。意識のこれらの考えもまた意根を薫染しますが、意根が十分に薫染されていないうちは、発せられる願はすべて形式に流れ、あまり真摯なものではありません。意根に何の意志も考えがなく、これに対して多少の作意と了別も生じていなければ、決定心もなく、単にその場しのぎのいい加減なものにすぎません。意識が意根の薫染に成功すると、意根はこれらの願いに興味を持ち、欲心所と願いを持つようになります。

意識が意根を薫染する過程は、まず意識が薫染を受けて発願に興味を持ち、その後、これらの情報を意根に伝え、さらに発願の内容をすべて意根に伝えます。これには一定期間の薫染が必要であり、意識が何度も繰り返し思惟し、絶えず意根に情報を伝えてこそ、意根は重視するようになり、この願いに対して作意を生じます。作意した後、触・受・想の心所の運行を経て、この願の内容を了別します。自分が発願することによって得られる利益を思量 (manasikāra/manana) し、自分にとって利益があり、自分を速やかに成仏させることができ、無量の衆生をも広く度することができると知るのです。

そして意根は発願を決定します。この思量性と決定は、神様の思心所の作用です。第八識が了別した後、随順して協力し、六識と七識が一体となって、四弘誓願を発起し、十無尽願を発起し、永遠に衆生を利楽し、自分を早く速やかに仏道へ成就させたいと願うのです。この発願には、必ず意根の誓願が離れがたく関わっており、早く成仏したい、衆生を度したい、速やかに仏の果位を得たいという願い、すなわち意根の意志があり、成仏したいという心行があるのです。


——生如法師の開示
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