衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2026年09月03日    木曜日     第1開示 合計4828開示

七つの識はすべて五別境心所法を有する

五別境心所法である欲、勝解 (adhimokṣa)、念、定 (じょう)、慧は、出世間法を成就する鍵であるだけでなく、世間法を成就する鍵でもあります。一切法の生・住・異・滅はすべて五別境心所法によって引き起こされるのであり、五別境心所法がなければ、一切法も成就することができません。たとえば欲心所ですが、衆生は求めるもの、願うものがあれば、それが出世間法のことであれ、世間法のことであれ、すべて一種の欲望であり、これらの欲望は八つの識心の作意・触・受・想・思を引き起こします。思心所が現れた後、欲するところ、願うところは生じ、増長し、滅亡します。そのうち、生じるのも速く、滅するのも速く、環境の影響を受けやすく熏染されやすいのは、意識の欲望です。一方、深層の欲望、希求、希冀、願望など、意識がコントロールできず、把握できない、根深いものは、意根の欲望です。五識にもそれぞれの欲求があり、多く触れ、多く五塵境界に作意したいという欲は、貪求、希求、求取とも呼ばれますが、これはただ五識が現在の五塵を了別した後の心行であり、現在の五塵と相対していないときには欲はなく、他の五塵境を了別しようとは思いません。その心思は非常に純粋です。

たとえば、極楽世界に往生したいというのは一種の欲望であり、意識心の欲もあれば、意根の欲もあります。意根の欲望は深信切願と呼ばれます。意根の深信切願がなく、ただ意識が往生したいと願うだけであれば、そこに真誠心はなく、十方の諸仏菩薩が迎えに来る感応もなく、自分の如来蔵 (tathāgatagarbha) の加持と配合の感応も得られず、したがって往生できません。なぜなら、往生するか否かは意根が主宰するからであり、意根が往生を欲せず、娑婆を貪り恋えば、極楽世界に往生することはできないのです。

仏になりたい、参禅したいというのは、意識心の欲もあれば、意根の欲もあります。意根の欲望がなければ、六識はそもそも精進することができず、参禅、学法、成仏といった事は成就できません。世俗法において昇進や富を得たい、ある事業を成就したいという場合にも、意識の欲望と意根の欲望の両方があります。意根に欲がなく、やりたくないことがあるなら、意識がどれほど欲しようと、どれほど造作しようと、どれほど希求しようと、すべて無駄です。なぜなら、意識は主宰することができず、必ず意根が主宰しなければならないからです。

また、勝解 (adhimokṣa) 心所法について言えば、意識の勝解もあれば、意根の勝解もあり、五識の勝解もあります。通常の場合、意根は六塵境界を了別する智慧が不足しているため、六塵境界を勝解することが難しく、六識に頼って六塵の具体的な状況を了別しなければなりません。六識が了別した後、その状況を意根に伝えます。もし意根が六識の伝えた情報を勝解できなければ、速やかに抉択することができず、正しく如理な抉択をすることができず、そうなると六識はしばしば過ちを犯すことになります。もし意根が六識の了別情報を勝解すれば、正しく、如理で、適時で、速くて正確な抉択を下すことができます。意根が勝解できない事柄については、正しい抉択を下すこともできず、意識の抉択に随順することもできません。六塵境界を理解できず勝解できないからです。もし如来蔵 (tathāgatagarbha) が了別した業種を勝解できなければ、先知先覚はなく、事前に準備をして意識を警覚することもありません。

五識もまた、それぞれが了別した境界に対して勝解力を持つことができ、その後に初めて認知の智慧が生じ、抉択力が生じます。もし五識が勝解できなければ、境界に対して抉択することができず、五塵を執取 (upādāna) することができず、五塵に対して造作することができません。観行 (vipaśyanā-caryā) による断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) や参禅のとき、もし意根が五陰 (pañca-skandha) 無我の理を勝解できず、般若 (prajñā) の理を勝解できず、如来蔵 (tathāgatagarbha) の法を勝解できなければ、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) もできず、明心見性もできず、煩悩を断除して生死を解脱することもできず、三界から出離することもできず、まして転識成智して仏道を成就することはできません。

また、念心所について言えば、誰の心にも何らかの法を念ずるものがあり、世俗法を念ずる者もあれば、仏法を念ずる者もいます。その中には意識の念もあれば、意根の念もあり、五識の念もありますが、意根の念が主です。意根が一念すれば、万法が現れ、一髪を引けば千鈞を動かすのと同じです。意根が動念しなければ、万法は寂然として生じません。意識の念には、境界の影響を受けて生じたものもあれば、さらに意根の指図・牽引を受けて生じたものもあり、意根の念に支配されています。五識の念は意根の念によって引き起こされ、同様に意根の念に支配されています。意識の念と五識の念は生滅変異が非常に速く、また浅薄です。一方、意根の念は往々にして深沈で長く、念念として留まらず、念念として変わらないことがあり、たとえばある人を想い、ある事やある法を念じている場合は、比較的頑固であることがあります。

また、定 (じょう) 心所について言えば、仏法の上で参禅、念仏 (buddhānusmṛti)、坐禅することに定 (じょう) することもでき、世俗法の上で科学研究やあるプロジェクトの難関攻略などに定 (じょう) することもできます。ここでの定 (じょう) には意識の定 (じょう) もあれば、意根の定 (じょう) もあり、五識の定 (じょう) もあります。意識に定 (じょう) があれば、細かく思惟や観行 (vipaśyanā-caryā) をし、綿密に分析・研究・推理することができますが、意識の定 (じょう) もまた意根の定 (じょう) の結果であり、意根が執着せず攀縁せず散乱しない結果であり、また意根が牽制し調控した結果でもあります。

五識の定 (じょう) も同様に意根が牽制し調控した結果であり、意根が五塵境界の上に定 (じょう) して了別をはっきりさせようとして初めて、五識は五塵境界の上に定 (じょう) することができ、五塵境界をはっきりと了別することができるのです。もし意根が仏法の上に定 (じょう) できず、科学研究や難関攻略の上に定 (じょう) できなければ、意識は仏法や科学研究に専心することができず、成果を上げることもできません。したがって、意根の定 (じょう) は根本定であり、非常に重要です。意根の心が定 (じょう) した後に初めて、その思量 (manasikāra/manana) は綿密で細やかで深いものとなり、事理の本質と真相を探究し出すことができ、証悟して智慧を得ることができ、さらには転識成智することができるのです。

別境の中の慧には、意識の慧もあれば、意根の慧もあり、五識にも慧があります。七つの識の慧には一定の差異があり、意識の慧は生じやすいのですが、真の慧もまた相当の禅定 (dhyāna) に依拠して初めて得られるものです。五識の慧は比較的単一で、ただ五塵境界をはっきりと了別し、如実に認知する機能を持つことができるだけで、それだけですが、これもまた自らの定 (じょう) に依拠して初めて生じます。一方、意根の慧は仏法の上で智慧を生じさせることもでき、世俗法の上で智慧を生じさせることもできます。慧を深く透徹したものにしたいなら、甚深な禅定 (dhyāna) に依拠しなければならず、さもなければ甚深な智慧を持つこともできず、如実智を生じさせることもできず、まして転識成智することはできません。

したがって、五別境心所法は、六識・七識がすべて持っており、五識にもあり、それは世間・出世間の一切法を成就する鍵であり、非常に重要な心所法なのです。七つの識が五別境心所法を持たなければ、多くの法は現起することができず、道業を成就できないだけでなく、世俗法も成就することができません。

——生如法師の開示
前へ前へ

大乗入楞伽経巻三 講解

次へ 次へ

五別境心所法は普遍に現行することができない

ページトップへ戻る