衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年08月18日    火曜日     第1開示 合計4813開示

意根が選択的に思量(manasikāra/manana)した結果、禅定が現れることになる

意根は第八識が変じ現した一切の相分に基づいて恒に審らかに思量するが、思量する時には軽重緩急があり、重点があり、主従があり、一切の法を同時に思量するわけではない。第八識が変じ現した法は意根がすべて縁することができ、縁した後に初めて思量性を起こすことができ、あるいは選択的に思量することができる。第八識が変じ起した相分はかなり広範囲に及び、意根が思量する範囲もかなり広く、一処あるいは限られた幾つかの処に定めることは難しく、それゆえに意根は集中することが難しく、定力を持ち難い。特別な訓練を受けない限り、意根は少数の法に対してのみ作意し思量するか、あるいは意根が一部の法に対する執着と攀縁性を滅除し、もはや過度に攀縁しなくなって初めて、定を得ることができ、智慧が増長するのである。

たとえば四禅八定や未到地定を修めた者は、その意根は必ず定を有している。種々の三昧を持つ者も、意根は必ず定を有している。外道の法を修める者であっても、気功やヨガなどの様々な功法を練習する者、さらには各分野の研究者や科学者なども、意根は禅定を有している。もちろん最もよく最も深く定を得ているのは仏の意根である。それは意根が徹底的に究境して識を転じて智と成した後に具有する甚深禅定、無上禅定である。初地以上の菩薩の意根は識を転じて智と成し始め、一分あるいは多分の法無我智を有し、すでに人我執を断じ、一分あるいは多分の法我執をも断じている。その攀縁性は大いに減少し、意根の定は浅くないことは明らかである。八地菩薩や仏地に至っては、種々の三昧は限りなく深遠で変幻窮まりなく、意根の定は深広無辺である。意根の定力が優れているがゆえに、法に対する思量と考察は集中し専一であり、智慧は深遠なのである。

——生如法師の開示
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意根の思量決択作用

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意根は細かに了別できる——意根に対する誤解を厘清する(二)

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