第九 一相無相分 原文:世尊(せそん)。仏(ぶつ)は我(われ)が無諍三昧(むじょうざんまい)を得(え)たりと説(と)きたまう。人(ひと)の中(なか)において最も第一(だいいち)なり。是(こ)れ第一(だいいち)の離欲(りよく)の阿羅漢(あらかん)なり。我(われ)は是(かく)の如(ごと)き念(ねん)を作(な)さず。我(われ)は離欲(りよく)の阿羅漢(あらかん)なりと。世尊(せそん)。我(われ)もし是(かく)の如(ごと)き念(ねん)を作(な)さば。我(われ)阿羅漢道(あらかんどう)を得(え)たりと。世尊(せそん)すなわち須菩提(しゅぼだい)を説(と)きたまわず。是(こ)れ阿蘭那行(あらんなぎょう)を楽(たの)しむ行者(ぎょうじゃ)なりと。須菩提(しゅぼだい)は実(じつ)に行(おこな)う所(ところ)無(な)きを以(もっ)て。而(しか)も須菩提(しゅぼだい)と名(な)づく。是(こ)れ阿蘭那行(あらんなぎょう)を楽(たの)しむ行者(ぎょうじゃ)なり。
釈(しゃく):須菩提(しゅぼだい)は阿羅漢(あらかん)に「我(われ)は阿羅漢(あらかん)なり」という念(ねん)が無(な)いことを立証(りっしょう)するため、仏(ほとけ)に申(もう)し上げた:世尊(せそん)、仏(ほとけ)は私(わたし)が無諍三昧(むじょうざんまい)を証得(しょうとく)したとおっしゃい、人(ひと)の中(なか)で第一(だいいち)であると、これが離欲(りよく)第一(だいいち)の阿羅漢(あらかん)であると。しかし私(わたし)はこのような念(ねん)を生(しょう)じることはありません、自分(じぶん)が離欲(りよく)の阿羅漢(あらかん)であるとは考えません。世尊(せそん)、もし私(わたし)がこのような念(ねん)を抱(いだ)き、自分(じぶん)が阿羅漢道(あらかんどう)の果(か)を証得(しょうとく)したと思(おも)うならば、世尊(せそん)は須菩提(しゅぼだい)を「静寂清浄(せいじゃくせいじょう)の行(ぎょう)を喜(よろこ)んで実践(じっせん)する行者(ぎょうじゃ)」とはおっしゃらないでしょう。須菩提(しゅぼだい)は心(こころ)が空(くう)で為(な)すところ無(な)いがゆえに、須菩提(しゅぼだい)を「静寂(せいじゃく)の行(ぎょう)を喜(よろこ)ぶ行者(ぎょうじゃ)」と称(しょう)するのです。
須菩提(しゅぼだい)は別名(べつめい)を空生(くうしょう)とも言(い)い、常(つね)に世間(せけん)の空寂(くうじゃく)を感得(かんとく)できる。無諍三昧(むじょうざんまい)を証得(しょうとく)したがゆえに、決(けっ)して世間(せけん)の人(ひと)と争(あらそ)わない。世間(せけん)の人(ひと)が東(ひがし)と言(い)えば東(ひがし)、南(みなみ)と言(い)えば南(みなみ)、西(にし)と言(い)えば西(にし)、北(きた)と言(い)えば北(きた)である。世間(せけん)の人(ひと)が何(なに)を言(い)おうと、すべてが空(くう)であるから、優劣(ゆうれつ)や長短(ちょうたん)を争(あらそ)う必要(ひつよう)が無(な)い。須菩提(しゅぼだい)は世間(せけん)に対(たい)して何(なん)の欲望(よくぼう)や思惑(おもわく)も持(も)たず、心(こころ)は空(くう)・無相(むそう)・無願(むがん)で、為(な)すところが無(な)い。人(ひと)の中(なか)で第一(だいいち)の離欲(りよく)阿羅漢(あらかん)であるが、須菩提(しゅぼだい)は決(けっ)して「我(われ)は離欲(りよく)阿羅漢(あらかん)である」という念(ねん)を持(も)ったことが無(な)く、ましてや自(みずか)らを宣伝(せんでん)することは無(な)い。彼(かれ)は我相(がそう)に執着(しゅうちゃく)せず、我(われ)が阿羅漢(あらかん)であるという相(そう)にも執着(しゅうちゃく)しない。もしそうでなければ、相(そう)に執着(しゅうちゃく)する凡夫(ぼんぷ)であり、世尊(せそん)は須菩提(しゅぼだい)を「静寂(せいじゃく)の行(ぎょう)を喜(よろこ)ぶ行者(ぎょうじゃ)」とはおっしゃらない。須菩提(しゅぼだい)の心(こころ)が常(つね)に空寂(くうじゃく)で、欲(よく)も求(もと)めも無(な)いからこそ、世尊(せそん)は彼(かれ)を称賛(しょうさん)して「静寂(せいじゃく)の行(ぎょう)を喜(よろこ)ぶ行者(ぎょうじゃ)」とおっしゃるのである。
一方(いっぽう)、凡夫(ぼんぷ)は須菩提(しゅぼだい)とは正反対(せいはんたい)で、事実(じじつ)の有無(うむ)にかかわらず、好(この)んで自(みずか)らを誇(ほこ)り宣伝(せんでん)し、人(ひと)と優劣(ゆうれつ)を争(あらそ)い、目立(めだ)ちたがり、人(ひと)から称賛(しょうさん)されたり崇拝(すうはい)されたりするのを好(この)み、自(みずか)らを強調(きょうちょう)したがる。要(よう)するに、自(みずか)らを売(う)り込(こ)んで世(よ)に知(し)らしめ、自(じ)分(ぶん)の「我(が)」を満足(まんぞく)させたがる。これが凡夫(ぼんぷ)の相(そう)である。凡夫(ぼんぷ)は我相(がそう)を離(はな)れれば為(な)すところが無(な)く、常(つね)に我相(がそう)や四相(しそう)の中(なか)で生(い)きている。これが自(みずか)らの一生(いっしょう)の精神(せいしん)的(てき)糧(かて)であり、欠(か)くことのできないものだ。一(ひと)たびその「我(が)」が抑圧(よくあつ)されれば、魚(さかな)が水(みず)から離(はな)れたようになる。要(よう)するに、人(ひと)に道(どう)があるかないかは、事(こと)の上(うえ)で見(み)ることができ、身口意(しんくい)の行(ぎょう)がその人(ひと)の思想(しそう)境(きょう)界(かい)と智慧(ちえ)境(きょう)界(かい)を最も良(よ)く体現(たいげん)する。
四果(しか)の阿羅漢(あらかん)は我見(がけん)を断(た)っただけでなく、自(じ)分(ぶん)に対する執着(しゅうちゃく)も断(た)っており、意根(いこん)が自(じ)分(ぶん)の五陰(ごおん)に対(たい)する貪愛(とんあい)・執着(しゅうちゃく)を完全(かんぜん)に断(た)ち切(き)り、我慢(がまん)も断(た)じ尽(つ)くしている。心(こころ)の中(なか)には完全(かんぜん)に「我(が)」が無(な)い。既(すで)に「我(が)」が無(な)いのだから、人(ひと)と優劣(ゆうれつ)・上下(じょうげ)・正誤(せいご)・是非(ぜひ)・長短(ちょうたん)・強弱(きょうじゃく)を論(ろん)じ争(あらそ)うことは無(な)い。心(こころ)は寂静(じゃくじょう)で清涼(せいりょう)である。これが無諍三昧(むじょうざんまい)である。須菩提(しゅぼだい)は最も無諍(むじょう)で、最も寂静(じゃくじょう)であり、人(ひと)と事(こと)に最も随順(ずいじゅん)する。
離欲(りよく)とは、様々(さまざま)な欲望(よくぼう)、欲界(よくかい)のすべての希望(きぼう)や欲求(よっきゅう)を離(はな)れることであり、主(おも)に男女(だんじょ)の欲(よく)を指(さ)し、財(ざい)・色(しき)・名(みょう)・食(じき)・睡(すい)や、色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)の六塵(ろくじん)を含(ふく)む。初果(しょか)を証得(しょうとく)した後(のち)、初禅(しょぜん)を発起(ほっき)すると色界(しきかい)の境界(きょうかい)が現前(げんぜん)し、身心(しんしん)は極楽(ごくらく)となる。この楽触(らくそく)は欲界(よくかい)の様々(さまざま)な楽(らく)をはるかに超(こ)え、男女(だんじょ)の欲(よく)の楽(らく)も超勝(ちょうしょう)するため、男女(だんじょ)の欲(よく)を喜(よろこ)ばなくなり、欲界(よくかい)の五塵(ごじん)を喜(よろこ)ばなくなる。財(ざい)・色(しき)・名(みょう)・食(じき)・睡(すい)を喜(よろこ)ばなくなり、欲(よく)を断(た)つ。さらに瞋(しん)を断(た)てば五下分結(ごげぶんけつ)が断(た)じ尽(つ)くされ、三果(さんか)の聖者(しょうじゃ)となる。四果(しか)の阿羅漢(あらかん)はさらに欲(よく)を断(た)ち離欲(りよく)している。
須菩提(しゅぼだい)は欲(よく)を最も徹底的(てっていてき)に断(た)っており、第一(だいいち)の離欲(りよく)の人(ひと)である。しかし須菩提(しゅぼだい)に「我(われ)は離欲(りよく)阿羅漢(あらかん)である」という念(ねん)は無(な)い。もし須菩提(しゅぼだい)にこの念(ねん)があれば、彼(かれ)には「我(が)」があり、離欲(りよく)という事(こと)があり、心(こころ)は寂静(じゃくじょう)でなく、清浄(せいじょう)でもなく、世尊(せそん)も須菩提(しゅぼだい)を「静寂(せいじゃく)の行(ぎょう)を好(この)む人(ひと)」とはおっしゃらない。須菩提(しゅぼだい)の心(こころ)には事(こと)が無(な)く、欲(よく)無(な)く為(な)すところ無(な)く、さらに十八界(じゅうはちかい)の一切法(いっさいほう)を空(くう)と見(み)ている。一切行(いっさいぎょう)は皆(みな)空(くう)であると認識(にんしき)しているため、須菩提(しゅぼだい)には行(おこな)うべきことも無(な)く、空幻(くうげん)の法(ほう)や虚妄(こもう)の法(ほう)の中(なか)で為(な)すべきことも無(な)い。為(な)すことすべてが空(くう)であり、実(じつ)にその事(こと)は無(な)い。このようにして須菩提(しゅぼだい)こそが、静寂(せいじゃく)の行(ぎょう)を喜(よろこ)び、為(な)すところ無(な)き行(ぎょう)をする人(ひと)なのである。
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