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日常法話

2025年12月22日    月曜日     第1開示 合計4558開示

金剛経講解・須菩提はなぜ「我是離欲阿羅漢」というような念頭がないのか?

一相無相分第九 原文:世尊。佛说我得无诤三昧。人中最为第一。是第一离欲阿罗汉。我不作是念。我是离欲阿罗汉。世尊。我若作是念。我得阿罗汉道。世尊则不说须菩提。是乐阿兰那行者。以须菩提实无所行。而名须菩提。是乐阿兰那行者。

解釈:須菩提は、阿羅漢には「私は阿羅漢である」という念いがないことを証明するために、仏にこう言った。世尊よ、仏は私が無諍三昧を証得し、人の中で第一に位し、第一の離欲阿羅漢であると言われました。しかし私は「私は離欲阿羅漢である」というような念いを起こしません。世尊よ、もし私がこのような念いを起こし、私が阿羅漢道の果を証得したと考えるならば、世尊は須菩提は清浄寂静の行を楽しむ行者であるとは言われないでしょう。須菩提は実において何ら行うところがなく、それゆえに須菩提を寂静の行を楽しむ行者と名付けるのです。

須菩提は別名を空生とも言い、常に世間の空寂を感知することができました。無諍三昧を証得したので、決して世間の人と諍わず、世間の人が東と言えば東、南と言えば南、西と言えば西、北と言えば北です。なぜなら、世間の人が何を言おうとすべて空であり、高低上下、長短を諍う必要はないからです。須菩提は世間に対して何の欲望も考えもなく、心は空・無相・無願で、何ら作為もなく、人の中で第一の離欲阿羅漢ですが、須菩提には「私は離欲阿羅漢である」という念いは一度もなく、まして自分をあちこちで宣揚することなどありません。我相に執着せず、「私は阿羅漢である」という相に執着しません。さもなければ、それは相に執着する凡夫であり、世尊は須菩提を寂静の行を楽しむ行者であるとは言われないでしょう。須菩提の心は常に空寂で、欲も求めもなく、世尊は彼を寂静の行を楽しむ行者だと讃められたのです。

一方、凡夫は須菩提とは正反対で、事実があるかないかにかかわらず、あちこちで自分を誇示し宣揚することを好み、人と長短を論じ合うことを好み、目立ちたがることを好み、人に追捧され崇拝されることを好み、自分を際立たせることを好みます。要するに、自分を売り込んで世間に知らしめ、自分のあの「我」を満足させるのが好きなのです。これが凡夫相です。凡夫は我相を離れると何もできず、常に我相・四相の中で生きており、これは一生の精神的な糧であり、欠くことのできないものです。いったんあの「我」が抑圧されると、魚が水を離れたようになります。要するに、人が道があるかないかは、事の上で見ることができ、身口意行が最も問題を物語り、その人の思想の境地と智慧の境地を最もよく表すのです。

四果の阿羅漢は我見を断つだけでなく、自我への執着も断っており、意根の自我の五陰に対する貪愛・執着は断じ尽くされ、我慢は断じ尽くされ、心の中には徹底的に我がありません。我がないのですから、人と高低上下、正誤、是非長短、強弱を論じ争うことはなく、心は寂静で清涼です。これが無諍三昧です。そして須菩提は最も無諍で、最も寂静で、最も人や事に随順する人なのです。

離欲とは、さまざまな欲望、欲界に属するすべての希望や欲求を離れることであり、男女の欲を主とし、財色名食睡、色声香味触法の六塵を含みます。初果を証したのち、初禅が発起すると、色界の境界が現前し、身心は極楽となります。この楽触は欲界のさまざまな楽よりはるかに殊勝であり、男女の欲の楽にも勝るので、男女の欲を好まず、欲界の五塵を好まず、財色名食睡を好まなくなり、欲を断ちます。さらに瞋を断てば五下分結が断じ尽くされ、三果の人となります。まして四果の阿羅漢はなおのこと欲を断ち離れているのです。

須菩提は欲を最も徹底的に断っており、第一の離欲の人です。しかし須菩提には「私は離欲阿羅漢である」という念いがありません。もし須菩提にこの念いがあれば、そこに我があり、離欲という事があり、心は寂静でなく、清浄でなくなり、世尊も須菩提を寂静の行を好む人だとは言われないでしょう。須菩提の心には事がなく、無欲無為であり、十八界中の一切の法を空と観じ、一切の行はすべて空だと考えているので、須菩提には行うべき何ものもなく、空幻の法の中、虚妄の法の中には何もなすべきことがなく、なすことはすべて空であり、そのような事実はないのです。このようにしてこそ、須菩提は寂静の行を楽しむ人、何ら作為の行のない人なのです。

——生如法師の開示
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金剛経講解・荘厳浄土分第十

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