すべての仏、およびすべての成仏の法は、金剛心 (vajra-citta) から生み出されたものであります。それゆえ、衆生が仏法と称する法もまた非仏法であり(是名仏法)、まず述べますに、諸仏は後になって成った仏であり、五陰 (pañca-skandha) の身の三十二相は自らの無垢識 (amala-vijñāna) が生み出して変現したものであり、平等性智・妙観察智・成所作智も自らの無垢識が変現したものです。無垢識は刹那刹那に七大の種子を用いて仏の五蘊・七識を生み出し、執持してこそ、諸仏は現前に存在することができるのです。諸仏の成仏の法とは、本無後有の法であり、諸仏が三大無量劫の修行によって積み重ね、まとめ上げた経験の法であり、因縁所生の法であって、定法ではなく、また仏の無垢識が生み出し、執持しているものでもあります。
したがって、衆生が仏法と称するものは、本来あって有る法ではなく、真実の不生不滅の法ではなく、後に仏法と名づけられたにすぎず、仮名としての仏法なのです。仏法は空無自性ではありますが、しかし非仏法でもありません。なぜなら、これらの法は畢竟、成仏の用があり、現象界における存在であり、空しく何も見えない法ではないからです。
諸仏と諸仏の成仏の法との法相をことごとく破除したのち、金剛心 (vajra-citta) と真如仏性のほかに、いまだ真実に存在して、変異できず破除できない法が何かあるでしょうか。ありません。最も至高無上の法の法相さえ破除できるのですから、世間には破除できない法相はなくなります。それならば、世間はまことに空虚寂寥であって、衆生が追求し、求め取り、執着するに値しないものです。みな心を静めなさい、止息しなさい、いたずらに造作を加える必要はありません。どのように造作しようとも、すべて空幻であって、何の役にも立たないのですから。
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