仏がこの世に出現して法を説かれるのは、すべて因縁に基づいて説かれるのです。仏は衆生の縁を観察され、どんな縁であればどんな法を説くか、機に応じて法を説かれます。仏が成道された最初には、まず各層の天において華厳経を説かれ、歴劫にわたって自分について修行してきた大菩薩の弟子たちを度されましたが、娑婆世界の声聞弟子たちは聾のごとく唖のごとくでした。そこで仏は人間の世界に戻り、解脱を求める声聞弟子たちのために小乗の阿含経を説かれ、彼らが修行によって成果を得たのち、再び大乗の法へ回りさせて修学させられたのです。娑婆世界の衆生は根基が浅く、みな解脱を求め、苦を離れて楽を得ようと願うので、仏は娑婆世界において三乗の法を説かれたのです。
一方、その他の仏国土では、仏は一乗の法だけを説かれます。すなわち一仏乗の法で、菩薩の根性を持つ衆生を度して仏道を成就させるのです。仏が法を説かれるときには、常に一つの縁に基づき、一つの事相が現れると、仏は一つの法を説かれます。時に弟子が請問することもあり、いずれも一つの前提があって初めて一つの法を説かれるのであり、縁もなく説かれる法は極めて稀で、それは特に重要な法ですが、それもまた衆生の機に応じたものです。したがって、仏の説法は一定のものではありません。法は因縁によって形成されるものであり、固定したものではないのです。すべての法は、どの仏国土で説かれたものであれ、衆生の無明の病・愚痴の病を対治するためのものです。そのような無明があれば仏はそのような法を説かれ、無明が滅し尽くされれば、法もまた用がなくなります。それゆえ、仏法は川を渡るための船筏のようなもので、岸に着けば捨てるのです。
法は因縁に依って存在するものであり、それはすなわち虚妄であり、また空であり、しばらく使えば捨てるものですから、実在だと執著してはなりません。しかし無明がまだ存在している間は、それをしっかりと掴み、道具として使わなければなりません。たとえば四聖諦の法は、証果して解脱を得た後には、この法は阿羅漢にとってはもう用がなくなります。さらに縁覚として修行するのは十二因縁の法です。辟支仏の果を証得した後には、因縁の法も用がなくなり、さらに菩薩の六度を修する必要があります。明心見性した後には、外門の六度の法は用がなくなり、さらに内門の六度を修します。初地に入ります。入地した後には、内門の六度は用がなくなり、さらに十度波羅蜜を修します。十地の菩薩となった後には、十度波羅蜜もまた捨てなければなりません。等覚・妙覚の法を修して仏道を円満した後には、一切の法は用がなくなり、すべて捨てて、心中は空空として法がないのです。
すべての法を円満に修持してこそ、成仏後に衆生のために宣説することができるのです。それゆえ、如来の説かれた一切の法は、本来から存在する固定不変の法ではなく、すべて空であり、真実の法ではありません。しかし、真実の法でないというわけでもありません。なぜなら、衆生はこれらの法に依って真実の法・無為の法を証得することができるからであり、また仏がこれらの法を宣説されるときにも、真実の真如の法を離れたことは一度もなく、まさに真如の法がここで働いているからこそ、仏は宣説することができたのです。これらの法はすべて仏の自心の真如から来たものであり、真如の中から流れ出たものであり、真如の一部であり、真如とは不一不異の関係にあるのです。
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