出家者の生活や修行の作風について、在家者をはじめとする一切の俗人は、誹謗し指摘したり、呵責したり罵倒したりする権利はなく、またそうすべきでもない。しかし、出家者が誤った法義を説き、仏経の本来の趣旨や解脱の法に反する内容を説き、法を非法と説くような場合に直面したときは、どうすればよいのか?
法義は衆生の生生世世にわたる生死輪回の問題に関わるものであり、重大な問題に属する。誤っていれば是正されるべきである。それ以外のことについては、僧や僧団のいかなる世俗的な行為についても指摘したり宣伝したりすべきではなく、とりわけ悪意ある宣伝、下心のあるもの、個人的な私心からくるもの、個人的な目的を達成しようとするもの、仲を裂こうとする宣伝によって、出家者のイメージを破壊しようとすることはすべきではない。この罪業は非常に重く、懺悔すら通じないこともあり、現世の花報 (puṣpa-phala/dṛṣṭa-dharma-vedanīya-karma) さえもたらされる。現世の花報は後世の果報よりずっと軽いものであるが、花報があれば必ず後世の果報があり、両方合わせると非常に重い報いとなる。
たとえ出家者であっても、他の僧の身口意行を宣伝したり、意図的に公然と指摘したりすべきではない。それによって在家者に知られて譏嫌を生じさせ、悪業を作らせ、その業行によって三悪道に堕ちて報いを受けることになるからである。大乗の菩提心を発した衆生であれば、誰であっても尊重し敬仰すべきであり、大きな福德のある人、徳行のある人は、いずれも尊重すべきである。その人に対して誹謗の心行を起こせば、罪過もまた非常に大きく、自分の福德が急速に消耗し尽くされ、さまざまな違縁や逆縁が現れることにもなる。自分の福德を損なうようなことは、必ず忍耐して自制し、作ってはならない。
三宝を誹謗すること、徳のある人を誹謗すること、その他一切の悪業を作ることは、あたかも天に向かって唾を吐くようなものであり、その結果、唾はすべて自分の顔に落ちてくる。また、石を持ち上げた挙句、結局は自分の足に落とすようなものである。他人と張り合ってはならず、因果と張り合ってもならず、また如来蔵 (tathāgatagarbha) と張り合ってもならない。人の計らいは天の計らいに及ばず、如来蔵の因果律には計らえないのである。逆に言えば、人が作った一切の善業と福業も、すべて自分自身に戻ってくるのであり、自分が利益を受けたのである。善業は自分のために作ったものであり、自分が善報を受けるのであり、一切の報いはすべて自分自身に報いのであり、他所に落ちることはない。
20
+1