衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年11月05日    水曜日     第1開示 合計4517開示

なぜ三宝を誹謗する罪が最大なのか?

仏経はすべて仏の真実の語であり、仏は衆生を欺き誑かすことはありません。多くの人は、自分が三宝に対して気ままに一言コメントしても何もない、大したことではないと思っていますが、この一言の重みは相当なものであるかもしれませんし、自分では往々にして気づかないものです。一念の善は天に昇って楽を受ける因となり、一念の悪は地獄に堕ちる因となります。仏法僧の三宝に対して言うこと行うことは、とりわけ重大であって、世俗法の中での言動とは同じではありません。一言によって三宝を破壊し誹謗したならば、事実に合っているか否かにかかわらず、すべて地獄の因となります。

和合しない言葉を一言いうことを、両舌といい、僧団の和合を挑撥し、僧侶の間、居士の間、僧侶と居士の間の和合の関係を挑撥したならば、いずれも地獄の因となります。最も多く業を作るのは口であり、悪い果報を免れたいならば、口の業を善く護り、禍が口から出ることを謹んで防ぐべきです。何もない時には話さず、何かある時には少なく話して良い言葉を言い、事を探して事を生じ、無事に非を生じることを忌むべきです。このようにすれば自身は清浄であり、過患を残しません。これは聡明で智慧ある人のすることであり、反対にそうでないのは愚痴で煩悩の深重な人です。

誹謗には無根誹謗と有根誹謗があり、根とは証拠や事実という意味です。その事がないのにあると言い、その事があるのにないと言い、事実を顛倒するのが無根誹謗であり、事柄が確かにあって、言ったことが事実であるのを有根誹謗といいます。三宝にとっては、この二つの場合とも誹謗に属し、罪過は非常に大きいのです。僧の過悪を言うのは大罪であり、たとえその事があったとしても、心あってもなくても他人に向かって言えばすべて罪であり、悪心で宣伝すればその罪はさらに大きいのです。

なぜ三宝の中で業を作ると罪が最も重いのでしょうか。三宝は世間の衆生に対する恩が最も大きく、功徳が最も大きく、衆生に解脱をもたらし、衆生をして苦を離れ楽を得させることができる、衆生の最大の福田であるからです。自分の福田の中で悪業を作作するのですから、当然その罪は最も大きく、影響も最も大きいのです。もし自分の誹謗のために、衆生が三宝に対して信心を失うならば、それは衆生の解脱の道を断絶させるのと同じであり、この罪は間違いなくどんな罪よりも重いのです。世間においても、自分に恩のある人に悪を施すことは、人として恥とされ、世人に唾棄されるものであり、まして仏法の中で、自分に無量劫の解脱の功徳をもたらしてくれる三宝に悪を施すならば、その罪がどうして小さいはずがありましょうか。

悪業を作作する人はすべて、煩悩のためであり、すべて心中に「我」があるためです。貪瞋痴慢疑、心中に貪があれば、貪ること叶わず、得られないことによって悪業を作作します。心中に瞋があれば、己の意に順わずして瞋ります。心が常に愚痴で、善悪是非好悪を知らず、無知のために悪業を作作します。心中のあの「我」が炽盛で、抑えきれずに発して、他人を凌滅して悪業を作作します。心中に疑があれば、善悪因果を確定できずに悪業を作作します。

すべての悪業は、「我」によって作られたものでないものはなく、すべての煩悩は「我」によって来たものでないものはありません。「我」とは罪魁禍首であり、我見を断てなくさせ、三悪道を免れさせず、苦悩は窮まりなく果てしないのです。それゆえ、学仏の人は一人ひとり大きな決心を下し、必ずあの罪魁禍首を降伏させ、あの罪魁禍首を滅ぼさなければ、自分は苦を離れ楽を得ることができず、自心は安寧できず、天下は太平になりません。それゆえ、断我見は天下に福を及ぼし、衆生を福佑しますが、最大の受益者はやはり自分自身です。「我」がなくなったとはいえ、「我」がなくなってこそ真に良いのです。


——生如法師の開示
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いかなる者も僧の身口意の不善の処を宣揚してはならない

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