衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年11月03日    月曜日     第1開示 合計4515開示

僧の過ちを言うことは即ち悪である

仏教は出家者が現れたその日から僧伽(そうぎゃ)を建立し、出家僧伽が滅すれば仏教も滅する。これは仏典に根拠がある。剃髪して出家戒律を受けた者は全て三宝に属し、仏法を表す役割を果たし、仏教を代表する。表し方がどうであるかは、僧侶と僧伽の内部の事柄であり、外部の者には干渉する権利はない。

出家者には戒律と因果律による拘束と規範があり、たとえ戒を犯しても在家の者がとやかく言うことを許されない。故に仏は在家の者が出家者の戒律を見ることを許さず、戒条に照らして出家者の言行を比較し、慢心を生じ、罪を挙げて出家者の過失を宣伝し、三宝を誹謗する悪業を造らせないためである。その果報は恐るべきものである。出家者には僧伽が管理し、僧伽は出家者の過失と罪責を処理する。僧伽がない場合、あるいは僧伽が管理できない場合は、護法神と因果律が管理するが、在家の者には管理する資格はなく、在家の者は絶対に僧侶のいかなる過失も口にしてはならない。

出家者は自恣日(じしにち)に自ら犯した戒律を挙げ、互いに犯した戒律と過失を挙発するが、在家の者が盗み聞きすることは許されない。もし盗み聞きする者がいれば、護法神が剣でその首を斬る。つまり在家の者に出家人の犯した戒行と過失を知らせ、それを非難し宣伝させないためである。もし在家の者が出家者の過失を非難し宣伝すれば、事実の有無にかかわらず、全て誹謗の悪業となり、命終の果報は三悪道または地獄である。悪業が大きい者は、生きているうちに現世での花報(けほう)を受け、来世の果報を待つことができない。

ある者は出家者の非ばかりを見て、出家者が捨てた世俗の利益には目を向けない。たとえ出家者が頻繁に戒を破り、常に悪を造っても、はたして在家の者がそれ以上に悪を造っているだろうか。在家の者は毎日魚肉を食し、常に貪欲を断ち難く、相互に比較すれば、いずれの業が大きいか。そうでなければ、あれほど多くの者が自分を清らかと思いながら、なぜ出家して出家者の身分を持たないのか。出家は難しいか。難しくはない。ただ世間の様々な貪欲や享楽に執着し、世間の利益を断ち難いからである。故に在家の身分を尊し大なりとし、至る所で出家者と僧伽を非難する。僧伽がそれほどにもたらぬのであれば、なぜ大いなる心を発して、世間の貪欲を捨て、仏教と衆生と自己の長遠劫の道業のために勇敢に出家せず、出家の身をもって仏教と衆生を護る方がより有利ではないか。

仏在世時、提婆達多(だいばだった)と善星比丘(ぜんしょうびく)は、いかに悪を造ろうとも、仏と僧伽が制約し懲らしめ、他の者には干渉する権利がなかった。もし仏が管理できず、僧伽が管理できなければ、因果律が制裁し、生きながら地獄に堕ちる。仏在世時の六群比丘(ろくぐんびく)は無数の悪を造ったが、仏涅槃後も比丘であった。仏涅槃の時、六群比丘は酒を飲み肉を食し、大声で騒ぎながら仏の涅槃を祝ったが、仏は天人の耳目を覆って聞こえぬようにしただけで、神通力で彼らを制裁することはなかった。

仏が在世の時は仏を大とし、仏が涅槃した後は戒律を大とする。いずれの戒律の勢力が大きいかによって、それを大とし尊しとする。戒を大とする表現形式は以下の通りである:一、出家者と在家者が混住せず、戒律の異なる者は混住しない。たとえ出家者同士でも戒律に差があれば混住できない。二、行住坐臥、法要、布薩(ふさつ)の際は、必ず先に受戒した者が前、後に受戒した者が後となり、出家菩薩戒は在家菩薩戒に先立ち、在家菩薩戒は在家五戒・八戒に先立つ。


——生如法師の開示
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