衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2025年11月01日    土曜日     第1開示 合計4513開示

持戒の結果は身自在・心通达である

楞厳経の中で阿那律尊者は言った:我以持身,身得自在,次第持心,心得通达。

戒律は交通ルールのようなものです。道路上は車や人が行き交い、東西南北さまざまな方向へ進んでいますが、もし交通ルールがなければ、車は正面から向かい合って進み、反応が少し遅れるだけで衝突して、車が壊れ人が死ぬという惨状を招きます。信号機がなければ、車も馬も人が絡み合って、誰も動けなくなります。右側通行が定められていなければ、人と人が衝突し、人と車が衝突し、その結果は想像を絶します。横断歩道がなければ、人々は好き勝手に道路を渡り、車と衝突する確率が非常に高くなります。

この道理をわきまえている人は、交通ルールが自分に多くの不便をもたらし、外出の自由を奪っていると不平を言いません。大きな代償を払って得るそのような自由は、最も安全なものではなく、自由は命と比べれば取るに足りないものです。交通ルールを守ることは、最初は不自由に感じられるかもしれませんが、習慣が身につけば、どんな不快感もすっかり消え去り、交通ルールを守るのは当然のことだと感じるようになり、ルールを守らない人に対しては叱責し警告するようになります。どんな感覚もすべて心の問題であり、心を調伏してしまえば、何事もなくなり、自由とか不自由とかいう感覚もなくなります。

戒律も同様です。最初に戒を持つときは不自由に感じられ、さまざまな束縛があるように思われますが、それは以前の習慣と相容れないからです。習慣が身につけば、戒を持つのは当然のことだと感じるようになり、あらゆる不快感、束縛感は自動的に消え、犯戒という考えもなく、戒を守り持つという感覚もなくなります。このときには、すべての行いが思いのままに行われても、すべて戒律の規範に合致し、心は戒において自在であり、戒相がなく、持たずして持つ、守らずして守るという境地になり、戒と非戒、犯と非犯もなく、完全に戒を超越して、持戒人とも名付けられず、犯戒人とも名付けられず、自然で、自由で、自在です。


——生如法師の開示
前へ前へ

戒律の宗旨と総綱

次へ 次へ

菩薩のいかなる行為が犯罪に属するか

ページトップへ戻る