微生物も畜生の範疇に属し、畜生の種類は極めて多く、非常に複雑である。その範囲は巨大な龍や迦楼羅、象から、微小な蟻や細菌、微生物に至るまで多岐にわたる。微生物は至る所に存在し、空気中や物体の表面に遍満している。人は一息でも呼吸すれば、微生物を鼻腔や肺に吸い込み、殺してしまう。飲食物にも微生物は無数に存在し、現代の食生活はほとんど微生物と切り離せない。微生物による発酵を利用しており、すべての発酵食品は微生物によって製造されている。ふわふわした麵類、各種の菓子、酒類や飲料など、枚挙にいとまがないほど多くが微生物によって作られており、これを食すれば殺生となる。
微生物は極めて微小で肉眼では見えず、感知もできず、避けることもできない。また、日常生活と密接に関わり、色身や生活環境と共存しているため、衆生はどうしようもなく、接触を避けられず、殺さずにはいられない。そうしなければ衆生は正常に生存できない。したがって、仏が結んだ戒律には微生物を殺すことは含まれていない。もし微生物を殺すことが含まれていたならば、殺生戒を犯さない衆生は一人もいなかったであろう。
昔、比丘が外出時に小川の水、あるいは水溜まりの淀んだ水を飲む際には、中に細菌だけでなく小虫などがいるため、濾水嚢で濾過してから飲んだ。しかし濾過後の水にもなお極めて多くの微生物が含まれていた。肉眼で見えないものは飲んでも戒を犯したとはみなされず、肉眼で見えるものは飲んではならず、飲めば戒を犯したことになった。仏が結んだ戒律は、あまりにも微細で避けられない殺生については見逃している。これもまた衆生が逃れられない業障である。
微生物を殺すことは戒を犯すことには当たらないが、それでも因果関係は存在し、互いに悪縁を結んでいる。また、微生物はあまりにも微細で取るに足らず、五蘊の機能が極めて低劣であり、すべての衆生の中で最も劣弱で卑小である。彼らは道器ではない。もしその生存が人類あるいは修道者と衝突する場合には、人類と修道者を保全し、微生物を捨てるか、あるいは微生物を利用して人類に奉仕させるしかない。微生物という衆生はこれによって集めた福徳と結んだ縁により、次第に菌群から離脱し、五蘊の機能がより強い畜生の中に転生し、最終的に人身を得るに至る。これは微生物にとって絶え間ない進化の一つの経路でもある。
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