衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年07月28日    月曜日     第1開示 合計4436開示

自心を反観する時に、なぜ念頭が断滅するのか

問:私が内観で念頭を観察するとき、この念頭を観察する覚察力は、果たして意識心なのか、それとも本心なのか?今、私はそれがもう一つの意識心が現前の念頭を観察しているのではないかと疑っています。なぜそのような疑いを持つのでしょうか?私にはこういう実感があります。私が現前の念頭に気づいたとき、その念頭は本来なら一文全体であるべきところが、最初にその念に気づいた瞬間、半分だけ飛び出して消えてしまい、私の気づきによって遮断されてしまうのです。では、本来なら一文であるべきものを半文に切断したこの「覚」と思われるものは、別の意念なのではないかと疑問に思うのです。もしそれが別の意念が前の念を打ち消したのだとしたら、私のこの内観、いわゆる覚察(第三者)の方法は間違っているのでしょうか?それとも意識心で念頭を押さえつけているのでしょうか?

答:念頭を覚察できる心は本心ではありません。本心は世俗界のレベルにおけるいかなる法も知りません。七識の思想や念頭も含めてです。しかし本心は確かに七識の思想や念頭、および様々な造作を了知することができます。ただ、祂が了知するのは世俗法のレベルの内容ではないのです。これはさておき。念頭を観察できる心について言えば、表面上は独頭意識です。独頭意識は自らの念頭を観察、あるいは反照することができます。

意識が自らの念頭を反照するとき、念頭には様々な種類があります。もし念頭が悪く不善である場合、この時独頭意識は自らの念頭が良くないと知り、それによって念頭は自動的に消滅します。もしそうでなく、念頭が修行に関する善念や不善不悪の念である場合、定力が不足していると注意力が観察する側の意識に移り、観察される側の念頭を持つ部分は心力が不足しているため、念頭が生起できなくなり、そこで途切れてしまうのです。

修道においてこのような状況が生じた場合、さらに定力の訓練を強化する必要があります。定力が十分にあって初めて、観察する側と観察される側の両方の意識が継続し、バランスを保つことができます。つまり念頭が途切れず、観察も途切れない状態です。こうしてこそ、いつか智慧が生起します。一方で念頭の善悪を覚知でき、他方で念頭の生滅異住、苦・空・無常・無我を覚知し、さらに念頭の発源地である本心を見つけ出すことができるのです。

実際、独頭意識の反照活動の中では、定力が十分なときには意根の反照もあります。つまり意識と意根が共同で意識と意根を観察するのです。自らを観ることもあれば、交差して互いに観ることもあります。このように観ることが究極の観であり、真実の覚察力と智慧を生み出すことができるのです。


——生如法師の開示
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