楞厳経第五巻原文:(烏芻瑟摩)我は常に先んじて憶う。久遠劫の昔、性は貪欲多し。仏の出世有り。名を空王と曰う。多淫の人を説いて、猛火聚と成る。我に教えて遍く観ぜしむ。百骸四肢の諸の冷暖の気を。神光内に凝りて、多淫の心を化して智慧の火と成す。是より諸仏は皆、我を呼び召して火頭と名づく。我は火光の三昧の力の故をもって、阿羅漢を成ず。心に大願を発す。諸仏の成道するに、我は力士として、親しく魔怨を伏す。仏、円通を問う。我は諦観をもってす。身心の暖触、無礙に流通し、諸漏既に銷え、大宝焰を生じ、無上覚に登る。斯れ第一と為す。
釈:烏芻瑟摩(うすしつま)は、久遠劫の昔、自身が貪欲の心が強かったことを回想する。空王仏は彼に説いて言う、心性に淫欲が多い者は、淫欲が多いが故に、毎日あたかも猛火の集まる部落の中にいるが如く、自らの身心を燃やし、絶えず身心の焦がれるような感覚を受け、安寧を得られない、と。この焦燥から脱するため、仏は烏芻瑟摩に貪淫を対治する妙法を教えた。それは、毎日、自身の全身上下の百骸四肢の中にある冷気と暖気を、頭から足まで、足から頭まで、全てを観行することであった。
これは火大(かだい)から入って観行するものである。火大が色身(しきしん)に現れたるは体温、即ち冷たさまたは熱さであり、全身上下内外に遍く分布する、即ち百有余の骸骨と四肢の中にある。仏は烏芻瑟摩に全身の冷暖を全て観行するよう命じた。烏芻瑟摩がしばらく観行した後、身心に巨大な変化が現れた:神光が内に凝集し、多淫の心を化して智慧の火と成す。神光とは何か。それは精神の勢い、精力、注意力、心力、主に意根(いこん)の精神的な力を指す。六識(ろくしき)の注意力が外へ散じないだけでなく、最も主要なのは意根の精力も外へ漏れ出て淫欲を発散せず、逆に身の内へ凝集し、全て身体の中の冷暖の気を観ることに用いられた。この本来なら発散されるべきであった精力とエネルギーは内へと転化し、観察力と智慧の力へと転じ、智慧の光を生じ、心火は慧光へと変わった。
仏教の方法は強引に淫心を抑えつけて起こらせないのではなく、巧みに転化し、転移させるのである。同じ一つの精力と情熱を別の場所へ移し、智慧を開発する所へ、解脱へ至る所へ用いる。なんと巧妙なことか。抑圧は苦痛と葛藤を引き起こし、賭博や麻薬を断つように耐え難いものであるが、転化は火を元に帰らせ、別の場所で使用することである。十分に活用した後、火光三昧が生起し、身心共に勃勃たる生気を発散し、煩悩の漏(ろ)は尽き、清涼寂滅し、心は大自在を得て、阿羅漢となる。烏芻瑟摩が修した円通の法門は:一心に身体の百骸四肢の一切の冷暖の触(そく)を観行し、身体中の火大が妨げなく全身を流通運行し、再び淫欲に阻まれて淫欲の中に滞留せず、これより一切の煩悩が滅除され、三界世間を解脱する大智慧が生起し、無上覚の路へ登ったのである。
地水火風空の四大(しだい)から入って観察するのもまたこのように観るのであり、皆、身の触れる根塵(こんじん)の処を観るのである。貪淫は火大に帰し、広範な貪欲は水大に帰す。身内の水界と身外の水界が等しく差別ないことを観じ、皆空に帰して、貪欲を滅除し、煩悩の漏を尽くすことができる。瞋恚(しんに)もまた火大に帰し、同じく心火が空に帰することを観じて、瞋恚を滅除し、解脱を得る。五蘊(ごうん)の中の如何なる一つの法も、観行の所縁と為すことができ、皆、道に入り、煩悩の漏を滅除し、皆、涅槃を得て解脱することができる。
27
+1