衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月16日    土曜日     第4開示 合計1266開示

止観とは定慧である

止とはすなわち定であり、観とはすなわち慧である。修行とは止観双運を行じ、定慧等持することである。止とは心を一つの境界の上に摂持し、一法に縁じて動揺しないことである。観とは、縁じた一法に対して観行 (vipaśyanā-caryā)、思惟、参究、思考を行うことである。止観は連がって相通じているものであり、止がなければ観することはできず、観行がなければ智慧は生まれない。観すると同時に定も生じ、止も得られるのであり、両者は相輔相成の関係にある。慧がなければ定することはできず、定がなければ智慧は生まれない。

智慧があるときには、法に対して抉択力が備わり、必要のない世俗の法を捨て、他の当面役に立たない雑事の干渉を排除して、最も重要なことを選んで行うことができる。抉択がしっかりできれば、心は一処に止まることができる。慧とは、意識が深く細やかな思惟 (manasikāra/manana) を通じて道理を明らかにできることであり、深く細やかに思惟する過程で、さらに意根を反熏し、意根を説き伏せた結果である。

止であれ観であれ、いずれも七つの識の修行に関わる。七つの識を一つの境に専注させ、次いで意識の心はただ一つの対象のみを分別し、精力を集中して心に他念なければ、問題を思惟し尽くすことができ、その中に隠された道理を明らかにし、仏法の智慧を得ることができる。観慧が定を生じるとは、意識が道理を明らかにした後に、さらに意根を熏染し、意根に世俗の法を執著しないよう説き伏せ、意識の散乱を避けた結果である。止であれ観であれ、いずれも七つの識の上で用功するものであり、七識を一つの境に専注させ、意識の心にただ一つの対象のみを分別させ、精力を集中させれば、思惟は通透し、その中の真の内包を明らかにし、真の智慧を得ることができる。第七識はただ一つの境にのみ縁じることはできないが、それでもやはり攀縁を減らし、作意と思量 (manasikāra/manana) を少なくすることができるので、次第に定に近づくことができ、こうして初めて意識に定があり、止を得ることができる。さもなければ、意根が至る所で攀縁するなら、意識はどのようにしても一処に止まることはできない。

定は開悟の基礎であり前提条件である。菩薩六度と菩薩三無漏学の中で、定はその一つであり、修定の重要性が見て取れる。定力がなければ観行 (vipaśyanā-caryā) はできず、定力が浅ければ観行は深入できず、細やかにもなり得ず、智慧を開発することはできない。もし欲界の最高の定である未到地定 (anāgamya-samādhi) を修得できれば、観行は力を得る。それは色界の初禅の前の一種の定であり、この定があれば、禅を参じたり一つの法義を参究したり、あるいは五陰 (pañca-skandha) の虚妄を観行したりする際に、心が専一となり、思惟は深くしかも細膩となり、こうして初めて法理を思惟し尽くすことができ、破参開悟の可能性が生まれる。

修行の結果と目的は智慧を開発することにあり、智慧があってこそ生死輪廻から出離し、解脱を得ることができ、智慧があってこそ仏道を成就できるからである。道を悟って智慧を開くことは、様々な定境よりも貴重であり、より重要である。もし定力のみがあって解脱の智慧がなければ、せいぜい天に昇って福を享受できるだけであり、福が尽きればなお三悪道に下って苦を受けることになる。それゆえ、必ず定慧等持とし、偏って修めてはならない。

止観双運、定慧等修を行えば、学仏は必ず成就がある。慧があって定のない者は狂慧であり、狂慧の者は必ずしも徳があるとは限らず、その見解も必ずしも真実信頼できるとは限らず、煩悩は結局降伏できないので、必ずしも徳があるとは言えないのである。定があって慧のない者は愚を守る者であり、愚頑で通じない者には道がない。定と慧を兼ね備えた者は、必ず解脱を証し、真実の法益を得る、仏法における大丈夫である。

——生如法師の開示
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無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) の由来

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意根は念心所を有す

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