識を智に転ずるとは、主に七識が識から智へ転換することを指します。七識には無明の識性が存在し、智慧が浅薄であるが故に、その無明と煩悩を滅除し、大智慧を生じさせ、識を智へと転じる必要があります。七識の無明が断尽され識が智へ転じた後、如来蔵あるいは異熟識に存在する染汚の種子が徹底的に断絶され、もはや如来蔵異熟識を束縛せず、その機能作用を制限しなくなります。この時、如来蔵異熟識は大光明を放ち、自らの全ての機能作用を完全に発現させ、大円鏡智へと転じます。これを方便的に「如来蔵異熟識が識を智に転ずる」と説くのです。
識心の識性は無明性・愚痴性・煩悩性・遮障性・執着性を有し、その智慧は浅薄であり、法を観る際には法相に陥りがちで、唯識に関する智慧を具えず、法の真実相を認識できません。明心後に漸次に禅定を具え、煩悩を断除し遮障を取り除き、次第に牢関を突破して有余涅槃に至り、命終時に無余涅槃に入る能力を有しながらも敢えて入らず、その後「夢幻観」を超越し唯識を修学します。一分の唯識種智を具えた後、初めて法の唯識性を了知し、法の実質を悟り世俗の法相に堕することなく、智慧が質的飛躍を遂げます。これにより第六・七識が識から智へ転じ、如来の家に入り仏陀の真実の仏子となり、仏種を継承し一方を教化する能力を具えるのです。
識を智に転ずる前提条件として、必ず証果(第三果以上の聖果)を得ていること、初禅以上の禅定を具えていること、明心証悟により法界の総相智と後得智を具備し、如来蔵が五蘊身において微細に作用する様を現前観察できること、さらに一分の唯識種智を有していることが必要です。故に禅定がなければ、証を論ずることも、智慧を語ることも、ましてや識を智に転ずることを説く資格はなく、せいぜい実践的な解決力を持たない乾慧(表面的な知恵)を有するに過ぎません。
最初に識を智に転ずるのは初地の菩薩の位階においてであり、如来の家に入り仏陀の真実の仏子、すなわち仏陀の実子となります。換言すれば初地以前の菩薩、四果の大阿羅漢や辟支仏でさえも、未だ仏陀の実子とは認められません。その理由は彼らが識を智に転ずることができず、識性が智性を凌駕し、一切法を観る慧力が不足し、一切法の有を観ることにおいて空を観る力が劣っているためです。
仏法の修学において識を智に転ずることは極めて高い関門であり、定力と慧力の双方が充実して初めて、この関門を安らかに超える能力を具えます。定力は初禅以上の禅定力を具足し、慧力は観空の智慧力(人我空及び一分の法無我空)を備えなければなりません。さらに菩薩の福徳力・自律性・心性・衆生への慈悲・願力など諸条件が全て具足して初めて識を智に転ずることが可能となり、これは数劫・数十劫・数百劫、あるいは数千劫という短い修行期間で達成できるものではありません。
戒律を保つことは自律を意味し、これによって初めて他を律し導くことが可能となり、衆生の模範となります。戒律が円満で忍辱柔和である時、初禅定が具足します。この初禅定を基盤に我見を断じた上で次第に種々の煩悩を断除し、智慧の遮障が一部除去されます。もし煩悩習気も断じ尽くせば、智慧の遮障は完全に取り除かれ、慧日が天地を照らすのです。
これにより、修行の究極目的は第六・七識の空を証得する智慧を成就することにあり、意識が次第に一切法空を証し、意根もまた一切法空を証得し、第六・七識の識性を智性へ転換することにあると分かります。無明煩悩を有する識心が識性であり、無明煩悩なき識心が智性です。根本煩悩を断除するには初禅以上の定力を具足し、人我見と法我見を断じて初めて識を智に転ずることが可能となるのです。
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