人が最初に小さな恩恵を受けた時、良心に基づいて感謝の気持ちを知っています。しかし、継続的に恩恵を受け続けると、施しを受ける習慣が形成され、快適ゾーンに入り込み、当然のことと感じるようになり、依存性が生じます。この当然性が崩され、他人が施しを止めると、快適ゾーンが消え、依存するものがないため、不快感を覚え、心理的に受け入れられず、やがて憎しみが生じます。人の習慣を変えるのは困難であり、依存を断つと怨みが生まれます。人は習慣、特に快適で享受できる習慣を変えたがりません。人は自身の習性や観念とかけ離れた教育を受け入れたがらず、人を変えるには段階を踏んでゆっくり進め、性急であってはなりません。
習慣がこれほど固着性を持つ以上、良き習慣を培い、悪しき習慣を駆逐するよう努めなければなりません。例えば、呼吸を観じる習慣が身につけば、雑念が駆逐されます。雑念が浮かんでいる最中に呼吸を観じると、意根の全精力が呼吸に集中し、定が現れ、雑念は消滅します。徐々に恩恵に適応し、習慣化して依存を生むのは意根です。意根は貪りの心と怠惰の性質が強く、悪い習慣は形成しやすいものの、改めるのは非常に困難です。恩恵を受けるのは容易でも、利益を失うことは耐え難いのです。
どの心が感謝し、どの心が仇となるのか。愛憎は、どの層面と程度に落ち着くか、真実か虚偽か、真実ならばどの程度か、虚偽ならばどの程度かによります。感情が比較的深いものは意根の働きであり、浅く習慣化していないものは意識の働きです。意識の段階では感情は制御しやすいですが、一旦意根に落ち着き習慣化すると、感情は制御が難しくなります。
恩恵を受けた時、良心のある人ならば誰しも感謝の心を抱き、心に刻み続け、金銭があれば返そうと考えます。意識も意根も同様です。もし意識が絶えず意根に感謝を促す必要があるなら、それは意根に良心がない証左です。良心のある人には、意識が促す必要はありません。ちょうど意識が証果を得た者が、絶えず意根に「煩悩を起こしてはならない、五蘊に執着してはならない、五蘊は虚妄である」と促し続ける必要があるようなものです。しかし意根自体が証果を得た時は、意識が絶えず促す必要は全くなく、意識は言葉を発する必要もなく、五蘊の虚妄を唱える必要もなく、意根が理解していればそれで良いのです。
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