衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年04月15日    土曜日     第1 回の開示 合計3920回の開示

観音耳根円通の法門で説かれる空寂の心をどのように証得するか

『楞厳経』における観世音菩薩が修めた観音耳根円通の法門について、観世音菩薩は禅定の中で空性を思惟し、不断に虚妄の法を破り続けました。この修行方式は極めて深い禅定と強力な般若智慧を必要とし、どちらが欠けても観音耳根円通法門を成就することはできません。この修行方法は深甚なる禅定の中で一切の生滅不実の虚妄法を排除し続け、最後に排除できない真実不滅のもの、すなわち真如如来蔵が現れるまでを指します。

この修行法は非常に優れていますが、ほとんどの人々、あるいは全ての者がこの境地に至ることは困難です。その理由として、第一にこれほど深い禅定を修めることができず、第二に深遠なる般若空性の智慧が不足し、禅定を通じてこの空性心を証得することができず、さらに広大な発心がなく、善根福徳がこのような修行を支えるに足りないためです。証得できない段階では、般若空性に対する誤解が甚だしくなります。この娑婆世界の衆生の善根では成就できず、最初の空さえも証得することが極めて困難です。般若智慧は相似の理解は可能ですが、禅定は厳格な基準であり、理解のみでは達成できない実際の修行の功力を要します。

したがって禅定の中で一切の虚妄法を排除することは凡人には不可能であり、人我を空ずるだけでなく法我も空じ、全てを排除した後に残る空じきれない真如こそが如来蔵です。現在この境地に至る者は存在しません。最後に残る空寂心を証得する時、それを証得する主体とは何か? その空寂心を認識する者とは誰か? この「誰か」もまた空であるべきですが、同時にこの空なる主体を利用して本来の空寂心体である如来蔵を発見しなければなりません。この修行は虚妄法を滅ぼすのではなく、真実と認めず、虚妄非真の意識によって破れない真心を証得するのです。

空寂心とは、その本体が無形無相であり、眼で見えず、耳で聞こえず、鼻で嗅げず、舌で味わえず、身体で触れず、意識で感じられず考えられないものを指します。これを証得するには般若経典を学び、真心の体性とその作用を理解した上で、禅定と参究の修行を重ね、五陰身の作用の中で不断に探究を続ける必要があります。

耳根円通法門は単なる禅定修行ではなく、禅定と智慧を併修し、四禅八定の基盤の上に大乗如来蔵の深法を含みます。禅定の中で生滅虚妄法を捨て続け、如来蔵以外の全ての心行、能空の心、所空の法、様々な空観念までも捨て去るため、智慧がなければ到底修められません。この法門を修めれば観世音菩薩の三十二応身を成就し、諸仏に比肩する三昧智慧を得られますが、究極に近づくほど修得は困難を極めます。

無我を修め我見を断じて法眼浄を得、五陰身を空ずる三昧は最も容易とされますが、命終までにこれを証得できる者が果たして何人いるでしょうか。私が法を弘めず専心して耳根円通を修めても、成就できないでしょう。四禅定を修めても不確実であり、初地菩薩の唯識種智の証量があっても同様です。観世音菩薩のような等覚菩薩は娑婆世界に現れません。『観無量寿経』の第一観さえ成就できないなら、他の議論は無意味です。

『観無量寿経』の第一観を数年修めた者でも、第三観を成就しなければ極楽往生は保証されません。第一観すら困難な現状で、ましてや観音の耳根円通法門を論ずるのは早計です。欲界の未到地定すら困難な状況で、初禅はさらに難しく、まして四禅定や耳根円通に必要な禅定は想像を絶します。初果証得さえ不確かな者が、地上菩薩の唯識種智を論じる資格はありません。世の半数は理論を語れても、実際に修行を成就する者は稀です。これこそが娑婆世界末法時代の実相です。

——生如法師の開示
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